第219章:聖母の誘いと、震える仮面
おじさまの大きくて温かい手のひらに包まれ、胸を支配していた冷たい恐怖が完全に消え去ったのを感じていた。
あの方は、長谷部誠さん。でも、もう私たちを脅かす存在ではない。おじさまの絶対的な権力という鎖に繋がれ、過去の罪を贖うために影に徹している一人の秘書なのだ。その事実が私に、かつてないほどの心のゆとりと、確固たる大人の余裕を与えてくれた。
リビングでは、子供たちが海斗社長と一緒にきらきらした笑顔でデザイン画を囲んでいる。私は手元のトレイに残った、まだ湯気を立てている温かい紅茶のカップにそっと手を伸ばした。
そして、部屋の隅の影で、直立不動のまま完璧な壁の一部と化していた誠さんの元へと、足音を立てずにしめやかに歩み寄った。
かすみが近づいてくる気配を察した瞬間、誠さんの背中が微かに、けれど激しく強張るのが分かった。おじさまと交わした『二度とかすみと子供たちに関わるな』という鉄の約束。誠さんは視線すら動かせず、ただ迫り来る元妻の気配に、心臓が止まるほどの動動を必死に押し殺しているようだった。
私はそんな彼の緊張を解きほぐすように、そっと柔らかな微笑みを浮かべ、さりげなくお茶を差し出した。
「あの……よかったら、一緒にお茶飲みませんか? いつもおじさまの秘書として、お大変ですね」
極めて自然に、ただの「おじさまの有能な秘書」を労うかのような、穏やかで澄んだ声。
その声が鼓膜に届いた瞬間、誠さんの切れ長の瞳が大きく見開かれた。
かつて長谷部家で自分が虐げ、怯えさせていたはずのかすみ。今、目の前にいる彼女の瞳には、自分に対する恨みも、恐怖も、過去のドロドロとした因縁すらも一切残っていなかった。そこにあるのは、絶対的な幸福に守られた気品溢れる女性の、聖母のような慈愛と大人の余裕だけだった。
「かすみ……さ……」
喉の奥まで出かかったその名前を、誠さんは必死に飲み込んだ。
名乗ることも、過去を謝罪することも許されない。何より、リビングの奥からはおじさまの冷徹で絶対的な視線が、自分たちの様子をすべて見透かすように注がれている。
誠さんはガチガチに震えそうになる指先をなんとか制御し、差し出された紅茶のカップを見つめたまま、深く、深く頭を下げた。
「……滅相もございません。お気遣い、心より感謝申し上げます。ですが、私はおじさまの影として仕える身。職務中に席を共にするわけにはまいりません」
消え入りそうな、けれど必死に理性を保った声。誠さんはカップを受け取ることすら恐れ多いというように、ただただ恐縮して一礼を続ける。
自分がかつて捨て去った宝物が、今や手の届かない遥か高みの光の中で美しく輝いている。そして、その宝物から「いつも大変ですね」と優しく労われることこそが、今の誠さんにとって、どんな責め苦よりも深く心に突き刺さる、優しくも残酷な「罰」だった。
遠くで響く子供たちの無邪気な笑い声を聞きながら、私は誠さんの頑なな態度を責めることもせず、「そうですか。無理を言ってすみません」とだけ微笑んで身を引いた。
過去の檻に囚われて自滅していく南条隼人と、目の前でおじさまの完璧な支配下となり頭を下げ続ける長谷部誠。二人の男たちの運命を完全に背後に置き去りにして、私たちは本物の幸せに満ちた未来へ、また一歩、優雅に歩みを進めていくのだった。
「本作の執筆にあたり、誤字脱字の確認や文章整理のためAIを利用しています(規約に基づき修正案の提案は受けない設定で使用)。物語の構成や本文作成は全て自分で行っています。」




