第190章:最悪の結婚生活
カチャリ、と役所の窓口で無機質な判子が押される音が響いた。
高倉麗子が提出した離婚届が、正式に受理された瞬間だった。
手元に残った控えを見つめながら、麗子は深く、長く溜息を吐き出す。その表情には、未練など一欠片もなかった。あるのは、重苦しい足枷をようやく外したかのような、圧倒的な解放感だけだった。
「これで、私はもう長谷部の人間じゃない……高倉麗子に戻ったのよ」
生まれたばかりの愛しい我が子を実家に預け、麗子は一人、すべてに決着をつけにきていた。
夫の身勝手な失踪、そして何より許せなかったのは、誠の「浮気」だ。もうすぐ自分との間に赤ちゃんが生まれるという大詰めの時期に、家庭を顧みず、心ここにあらずで夜遅くまで帰ってこなかった男。かつての女であるかすみや、その子供たちへの断ち切れない未練を隠そうともしなかったあの態度が、今ならすべて不貞の証拠として胸に腑に落ちる。
それに加えて、長谷部ホールディングスの破産だ。
(これ以上、あの泥船に付き合って、私まで泥沼に巻き込まれたくないわ。当然でしょう?)
長谷部重光と玲子夫妻が、これから借金まみれの地獄の中で、醜くののしり合いながら没落していくのは目に見えている。そんな破滅の連鎖に、自分と、生まれたばかりの可愛い女の子の未来を巻き込ませるわけにはいかない。高倉家の令嬢としてのプライド、そして何より一人の母親としての防衛本能が、麗子に迷わず離婚の道を選ばせたのだ。
役所の重いガラス扉を押し開け、麗子は外の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。長谷部邸のあの息詰まるような澱んだ空気とは、比べものにならないほど清々しい。
もう、あの男の帰りを待って、一人で不安と疑心暗鬼に駆られる夜は二度と来ない。
「さよなら、誠さん。――いいえ、誠」
麗子は振り返ることもなく、冷ややかに、しかしはっきりと心の中で告げた。
「私たちの結婚生活は、本当に最悪だったわ」
前を向き、ヒールの音を響かせて力強い足取りで歩き出す麗子の背中には、かつての弱々しさはどこにもなかった。長谷部財閥という巨大な虚飾が崩壊した跡地で、一人の女が完全に過去を切り捨て、前へと踏み出した瞬間だった。
「本作の執筆にあたり、誤字脱字の確認や文章整理のためAIを利用しています(規約に基づき修正案の提案は受けない設定で使用)。物語の構成や本文作成は全て自分で行っています。」




