第120章:月下の逃避行〜執事に託された、最も重い秘密〜
深夜の静寂を引き裂くように、納屋邸の裏門に一台の黒い車が滑り込んできた。
運転席から降りてきたのは、少し息を切らした誠さんだった。いつもの完璧に撫でつけられた髪が、ほんの少しだけ乱れている。
「かすみ様……!」
私を見つけた彼が、切羽詰まった声で駆け寄ってくる。
その声を聞き、彼の姿をこの目に映した瞬間。私の中で張り詰めていた最後の理性すらも崩れ去った。
「誠さん……っ!」
私は弾かれたように駆け出し、思わず彼の胸へと飛び込んで、その広い背中に腕を回して強く抱きしめていた。
ビクッと、誠さんの体が硬直するのがわかる。けれど、私は彼にしがみついたまま、子供のように泣きじゃくった。
「お願い……誠さん、このまま私をどこか遠くに連れて行って……!」
「……かすみ様」
「休息が必要だってわかってる。でも、もうここにはいられないの。南条夫妻が急に乗り込んできたり、早瀬碧が……あの『カフェ』ができたなんて言いに来たり……。あんな人たちのいる場所に、もう一秒だって居たくない……っ!」
私の震える背中を、ためらいがちに、けれどやがて力強く、誠さんの大きな手が包み込んだ。
彼の胸から伝わる温もりと、規則正しい心音だけが、今の私を現実の狂気から繋ぎ止めてくれる唯一の命綱だった。
「……わかりました。私が、必ずあなたを安全な場所へお連れします。……誰の手も届かない場所へ」
誠さんのその低く力強い誓いを聞いて、私は彼の胸に顔を埋めたまま、覚悟を決めて口を開いた。
「ねぇ、誠さん。……誠さんにだけは、本当のことを言うね」
「本当のこと……?」
「私……南条隼人の子供がいるの」
その言葉が落ちた瞬間、私を抱きしめていた誠さんの腕に、ギリッと強い力がこもった。
息を呑む気配。私は彼の胸に額を押し付けたまま、言葉を絞り出す。
「あの病室で寝言で言ったのは、ただの夢の中の子供のことなの。現実じゃない。……私のお腹にいるのは、間違いなく隼人の子供。でも……」
「……」
「隼人には、絶対に言わないでほしいの。もし知られたら、あんな誤解をしたままの彼に、この子はどう扱われるかわからない。……お願い、誠さん。私のために、隼人を裏切って」
それは、南条の忠実な執事である彼に対する、残酷すぎる願いだった。
けれど、長い沈黙の後。
誠さんは私を抱きしめる腕の力をさらに強め、私の耳元で、静かに、けれど絶対的な熱を帯びた声で囁いた。
「……承知いたしました。あなたの命も、そのお腹の小さな命も。この私が、全てを懸けてお守りします」
雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、南条隼人を裏切る決意をした執事の、狂おしいほどに優しい瞳を照らし出していた。
121章に続く




