第119章:深夜のSOS〜剥がれ落ちた執事の仮面〜
早瀬碧の不気味な提案と、背後に見え隠れする南条隼人の影。
納屋の屋敷すらも、もう安全な場所ではないと悟った時。私の中でギリギリ持ち堪えていた最後の糸が、プツンと音を立てて切れた。
(もう、嫌……。どこに逃げても、あの人たちの掌の上だなんて)
恐怖と孤独で、呼吸が浅くなる。あけみさんや薫さんに、これ以上迷惑はかけられない。かといって、お腹に小さな命を抱えた私が、一人で彼らの監視網から逃げ切れるはずもない。
絶望の淵で、震える手でスマートフォンを握りしめた私の脳裏に浮かんだのは、ただ一人。
病室で、「ご自分をもっと大切になさってください」と不器用に私を気遣ってくれた、あの冷徹で完璧な執事の顔だった。
南条隼人の一番近くにいる人間。頼ってはいけない相手だと、頭ではわかっている。
けれど、今の私には……もう、あの人しか縋れる場所が残されていなかった。
祈るような気持ちで発信ボタンを押す。
深夜の静寂の中、数回のコールの後、静かな声が耳に届いた。
『……もしもし。奥様、いかがなさいましたか』
いつもの、感情を殺した業務的な声。
でも、その声を聞いた瞬間、せき止めていた恐怖と悲しみが一気に決壊して、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「もしもし……誠さん……っ」
『奥様? 泣いていらっしゃるのですか。何か――』
「誠さん……っ、迎えに来てよ……っ!」
なりふり構わず、私は電話口で泣きじゃくりながら懇願した。
「お願い、私、もう無理だよ……。怖い……助けて……!」
南条の妻としてのプライドも、大人としての体面も、全てかなぐり捨てた悲痛なSOS。
電話の向こう側で、誠さんが小さく息を呑む気配がした。
そして、少しの沈黙の後。
彼を縛り付けていた『完璧な執事』という仮面が、音を立てて砕け散った。
『……わかりました。今すぐ、向かいます』
先ほどまでの業務的なトーンとは全く違う、低く、熱を帯びた男の声。
『……どこにも行かず、そこで待っていてください。かすみ様』
120章に続く




