第112章:病室の寝言〜存在しない娘と、支配者の怒り〜
産婦人科という言葉の恐怖から逃れるように、私は再び深い眠りへと落ちていた。
そしてまた、あの温かい光に包まれた夢の中にいた。
『ママ! 私、大きくなったらパパのお嫁さんになりたいな!』
無邪気な声で駆け寄ってきたのは、愛しい幻の娘、百合だった。
私と拓人が結ばれた世界線にだけ存在する、小さな天使。
『だって、私、パパのことがだぁい好きなんだよ!』
花が咲いたような笑顔で笑う百合を、私は愛おしく見つめる。現実では決して叶うことのない、残酷なほど甘い幻影。
私は夢の中で、彼女の頭を撫でながら優しく微笑んで答えた。
『ふふっ……百合ちゃんも、パパが好きなのね……』
しかし、その甘い囁きは夢の中だけでなく、静まり返った現実の病室にもはっきりと響き渡っていた。
「……百合ちゃんも、パパが好きなのね……」
自分の口から微かに漏れたその寝言に、私はハッとしてゆっくりと意識を浮上させた。
重い瞼を開けると、そこには二人の男が立っていた。
忙しい合間を縫って病院へ駆けつけたであろう夫の南条隼人と、その後ろに控える執事の誠さんだ。
しかし、彼らの様子は明らかにおかしかった。
見舞いに来たはずの二人は、信じられないものを見るような、ひどく困惑し、そして強張った表情で私を見下ろしていたのだ。
それもそのはずだ。私と南条隼人の間には、「百合」という名前の子供など存在しない。ましてや、私が隼人のことを「パパ」などと呼ぶはずもないのだから。
静まり返った病室は、息が詰まるほど冷たい空気に支配されていた。
やがて、隼人がベッドの傍らに一歩近づき、低く、地を這うような声で口を開いた。
「……おい、かすみ。起きろ」
短く発せられたその言葉には、妻を心配する優しさなど微塵もない。
あるのは、得体の知れない疑惑と、絶対的な支配者としての底知れぬ怒りだけだった。
113章に続く




