第108章:せめて夢の中だけは〜幻の娘と、白い天井〜
薄れゆく意識の中で、私はふわりと宙に浮くような感覚を覚えた。
冷たい床に倒れ込む直前、誰かの力強い腕が、私をしっかりと抱きとめてくれたのを感じた。
それが夫の隼人だったのか、それとも誠さんだったのか……それすらも認識できないまま、私は深い闇の中へと沈んでいった。
――……。
…………。
『ママ、見て!きれいでしょ?』
明るい光に包まれた、温かなリビング。
無邪気な声で私に駆け寄ってきたのは、愛らしい花冠を手にした小さな女の子だった。
私の大切な娘、百合。
『本当ね。百合、とっても上手よ』
私が頭を撫でてやると、百合はえへへと嬉しそうに笑う。
その背後から、優しげな足音が近づいてきた。
『かすみ。百合は本当に、君に似て可愛いな』
『もう、拓人ったら親バカなんだから』
愛する人、貝森拓人。
私たちは結ばれ、こうして愛する娘を授かり、穏やかで幸せな家庭を築いている。
あぁ、なんて幸せなのだろう。ずっと、ずっとこの温もりの中にいたい――。
けれど。
(……違う。これは、現実じゃない)
夢の中の幸せな光景が、徐々に冷たいノイズに侵食されていく。
現実は違う。拓人は、如月あやめと結婚したのだ。二人で海が見える丘のカフェを開き、そして……可愛い「男の子」がいる。
私の居場所なんて、あの丘にはもう最初からなかったのだ。
(お願い……神様。現実はもう、十分に痛いから。せめて、せめて夢の中だけは、幸せになりたい……!)
その悲痛な願いも虚しく、幸せな幻影は音を立てて崩れ去った。
「……っ」
ゆっくりと重い瞼を開けると、目に飛び込んできたのは殺風景な白い天井だった。
ツンとした消毒液の匂い。規則的な電子音。自分が病院のベッドに寝かされているのだと理解するまでに、少し時間がかかった。
「……気がつきましたか、奥様」
白衣を着た年配の医師が、カルテを見ながら静かに私を見下ろしていた。
「先生……私……」
「過度のストレスと疲労が重なっています。ご主人にも先ほどお伝えしましたが……今のあなたの体調を考えると、しばらくお仕事はお休みするようにしてください」
医師の重々しい言葉が、静かな病室に響く。
しばらく仕事を休む。
社長秘書である私が、南条隼人のそばを離れるということ。それは、私という鳥が、このままどうなってしまうことを意味しているのだろうか。
朦朧とする頭の中で、私はただ、失われた夢の残香に縋るようにシーツを強く握りしめた。
109章に続く




