第107章:仮面同士の会釈〜支配者の余裕と、黒幕の微笑み〜
かすみが化粧室でうずくまっている。
女将からのその報告に、私の胸の奥で苛立ちと得体の知れない焦燥が渦巻いた。
妻の異変に気づけなかったこと、そして何より、私の所有物である彼女が私の目の届かない場所で崩れ落ちたという事実が、ひどく癪に障る。
だが、私は南条のトップに立つ人間だ。他社の次期社長の前で、妻の体調不良ごときで無様に取り乱すような真似は絶対にしない。
私は冷や汗を滲ませている誠を背後に従えたまま、涼しい顔を作って早瀬碧に向き直った。
「すみません、早瀬様。どうやら妻が体調を悪くしたようでして……申し訳ありませんが、本日はここで失礼させていただきます」
私がそう告げると、早瀬はレンズの奥の目をわずかに丸め、すぐに気遣わしげな表情を作ってみせた。
「それは大変だ。かすみちゃん……いえ、奥様は昔から少し無理をしすぎるきらいがありましたからね。どうか、お大事になさってください」
親しげに「かすみちゃん」と呼びかけたその口ぶりに、微かな苛立ちを覚えながらも、私は完璧な夫の笑みを貼り付けて頷いた。
「ええ。また改めて、会食のセッティングをさせていただきますよ」
踵を返そうとした瞬間、私はふと思い出したように口の端を吊り上げ、早瀬を見た。
「あっ、そうだ。この前の資料の件ですが、具体的に進めましょう。……御社が手がけているという『カフェ』の事業も含めて、色々とね」
「……ええ。是非、前向きに進めさせていただければと存じます。南条社長」
早瀬は、相変わらずの知的で穏やかな微笑みを崩さない。
腹の底で何を考えているのかわからない男だが、ビジネスの駒としては悪くないだろう。私は早瀬に背を向け、今度こそ足早に個室を後にした。
冷たい化粧室の床でうずくまる、「私の妻」を迎えに行くために。
108章に続く




