第105章:料亭の化粧室〜彼の優しい嘘と、止まらない吐き気〜
「……申し訳ありません。少し、席を外させていただきます」
南条社長と早瀬くんの会話が続く中、私は限界を迎えて立ち上がり、逃げるように料亭の化粧室へと駆け込んだ。
洗面台に両手をつき、冷たい水で顔を洗う。
鏡に映る私の顔は、血の気が引いて真っ白だった。
胸の奥が、激しく波打っている。
(どうして……早瀬くんは、あそこで拓人の話をしたの……?)
和やかな会食の席だったはずなのに。彼に悪気がないのはわかっている。ただの世間話だったのだから。それなのに、私の心は完全にぐちゃぐちゃになっていた。
拓人が、あやめさんと結婚していた。
じゃあ、あの海が見える丘で、私に抱きつかれてパニックになっていた彼は……。
『親戚の子供なんだ』
あの時の情けない嘘が、脳裏に蘇る。
どうしてあの時、彼は私に本当のことを言ってくれなかったのだろう。
……ううん、違う。言えなかったんだ。
私が、南条隼人と付き合っていると信じ込んでいたから?
それとも……こんなに惨めな私に、これ以上絶望させたくなかったから?
(拓人……私に、嫌われたくなかったの……?)
初恋の人の、不器用で優しすぎる嘘。
それに気づいてしまった瞬間、こらえきれない涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「うっ……」
泣き崩れそうになったその時、再び強い吐き気が私を襲った。
胃の奥からせり上がってくるような、これまで経験したことのない重い不快感。
精神的なショックからくるものなのか、それとも……。
私は口元を押さえながら、ただ冷たい化粧室の床にうずくまることしかできなかった。
106章に続く




