第89章:帝王の嫉妬と消えた反逆者〜ひっそりとした決断〜
あの日、かすみの残した自由帳の『大好きだよ、拓人』という文字を見てしまった南条隼人は、冷徹な帝王としての余裕を完全に失っていた。
隼人は直ちに貝森拓人を、南条本社の誰もいない薄暗い会議室へと呼び出していた。
「……お前は、まだ納屋かすみが好きなのか」
地を這うような、恐ろしいほどに低い声だった。
どんなに権力で縛り付けても、かすみの心を手に入れられない隼人の『絶望』は、いつしか拓人に対するドス黒く、決して許すことのできない『憎悪』へと変わっていた。
拓人は隼人のその問いに対し、何も答えなかった。ただ静かに、何かを決意したような真っ直ぐな瞳で隼人を見つめ返し、一礼だけをしてその場を立ち去ったのである。
どうしてもかすみを取り戻したい隼人は、苛立ちを隠せないまま、かすみが匿われているであろう納屋財閥の屋敷へと自ら車を走らせていた。
◇
その頃、納屋財閥の屋敷。
自室に閉じこもっていたかすみの部屋には、秘書の長谷部誠が静かに控えていた。
「かすみお嬢様。……貝森拓人様についての、ご報告がございます」
誠の静かな声に、かすみはビクッと肩を震わせた。
「南条財閥の支援と、貝森財閥の逆襲により、スーパールッツは見事に立て直されました。近日中に、大々的にリニューアルオープンするとのことです」
「……そう。よかった、本当に……」
かすみは胸を撫で下ろし、悲しげに微笑んだ。これで拓人は、自分の愛する会社と従業員を守ることができたのだ。私の犠牲は、無駄ではなかった。
しかし、誠の報告はそこで終わりではなかった。
「ですが……貝森拓人様は、そのリニューアルを機に、スーパールッツの経営から完全に降りると宣言されました」
「え……?」
かすみの笑顔が凍りつく。
「拓人様は、『これからは誰にも縛られず、ひっそりと静かに生活したい』と。……南条隼人社長にも、ご両親にも何も告げず、完全に経営の表舞台から姿を消したそうです」
「姿を、消した……? 拓人くんが……?」
かすみは呆然と呟き、その場にへたり込んだ。
財閥同士の権力争い、如月の陰謀、そして南条の支配。そのすべての重圧から会社を救い出した拓人は、最後に自分自身の『自由』を選ぶため、かすみの手の届かない場所へと完全に消え去ってしまったのだ。
迫り来る南条隼人の足音と、忽然と姿を消したかつての恋人。
かすみの運命は、誰も予想しなかった方向へと激しく動き出そうとしていた――。
90章に続く




