第88章:帝王の過ちと自由帳〜見つけてしまった「大好きだよ、拓人」〜
納屋かすみが忽然と姿を消した、南条財閥の豪奢な屋敷の一室。
主を失い、静まり返ったその部屋の真ん中に、南条隼人はただ一人で立ち尽くしていた。
「……かすみ」
微かに残る彼女の甘い香りが、隼人の胸の奥を苛立たせる。
冷徹な若きCEOとして、欲しいものはすべて力で手に入れてきた彼にとって、「自分の鳥籠から逃げられる」という事態は初めての経験だった。
ふと、隼人の視線がデスクの上に止まった。
そこには、かすみがいつも大切に持ち歩いていた、一冊の使い古された『自由帳』が置かれたままになっていたのだ。
(彼女は、何を考え、何を想ってここから逃げたのか)
納屋かすみという一人の女性の『すべて』を知りたい。その強烈すぎる独占欲と焦燥感から、隼人は他人の手帳を覗き見るという、普段の彼なら絶対にあり得ない過ちを犯してしまった。
静かな部屋に、ペラリ……とページをめくる音だけが響く。
そこに書かれていたのは、日々の何気ない出来事や、サファリア女学院での思い出。しかし、あるページを開いた瞬間、隼人の長い指がピタリと止まった。
そこには、一枚の写真が大切に、本当に大切に貼り付けられていた。
写真の中で笑っているのは、まだ何の障害もなく、ただ純粋に将来を約束し合っていた頃のかすみと、貝森拓人の姿だった。二人は頬を寄せ合い、信じられないほど幸せそうな、隼人が一度も向けられたことのない『心からの笑顔』を浮かべている。
そして、その写真の余白には、かすみの丸く可愛らしい文字で、はっきりとこう書き込まれていた。
『将来はずっと一緒ね。大好きだよ、拓人』
「っ……!!」
それを見た瞬間、南条隼人の完璧な仮面に、かつてないほどの激しい亀裂が走った。
どんなに高価なドレスを与えても、森野海斗の最高級の指輪を贈っても、かすみの『心』は一度たりとも南条隼人のものにはなっていなかったのだ。彼女の心は、ずっと昔から、貝森拓人への愛だけで満たされていた。
「……あぁ、そうか。俺は……」
絶対的な帝王が、初めて見せた残酷なほどのショックと絶望。
隼人はその自由帳を力強く握りしめたまま、かすみが決して自分には見せなかった「大好きだよ」という文字を、ただ血の滲むような思いで睨みつけていた――。
89章に続く




