第85章:決別と過去の指輪〜愛なき鳥籠への服従と、パーティーからの逃避〜
拓人くんからの「幸せになってね」という言葉が、いつまでも私の耳の奥で呪いのようにリフレインしていた。
南条財閥の威信をかけた、きらびやかな婚約披露パーティー。
大勢の来賓たちが私と隼人を囲んで祝福の言葉を述べているというのに、私の心はずっと明後日の方向を彷徨っていた。
(ここから、逃げたい……)
息が詰まる。重たいウエディングドレスも、左手にはめられた森野海斗デザインの豪奢なダイヤの指輪も、すべてが私を縛り付ける鎖にしか感じられなかった。
「かすみ、顔色が悪いな」
ふいに、隼人が私の異変に気がつき、その冷たくも美しい顔を覗き込んできた。彼は私の肩を抱き寄せると、周囲には優しい婚約者を装いながら囁いた。
「少し、控え室で休んでおいで」
私はコクリと頷き、逃げるようにして華やかな会場を後にした。
静まり返った豪華な控え室。ソファーに腰を下ろした私は、小さなポーチの中から『一つの指輪』を取り出した。
それは、南条家から贈られたダイヤではない。まだ私と拓人くんが普通の恋人同士だった頃、彼が私にくれた、ささやかで大切なペアリングだった。
私はその指輪をじっと眺めながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……もう、過去の恋人なんだね」
私は心のどこかで、ずっと淡い期待を抱いてしまっていたのだ。
拓人くんがルッツを立て直すためとはいえ南条財閥にやってきた時、てっきり「かすみ、迎えにきたよ」って言ってくれると、本気で信じて待っていた。
でも、現実は違った。彼は会社を守ることを選び、私を手放したのだ。
(私はもう、南条隼人の妻として、愛のない生活を送ることを受け入れるしかないんだわ……)
私は手のひらの上の指輪をそっと握りしめ、心の中で永遠の別れを告げた。
『さよなら、拓人さん。拓人さんも……きっといい人が現れるから、幸せになってね』
自分自身に言い聞かせるようにそう念じると、心の中にポッカリと冷たい穴が空いたような気がした。もう、あの華やかなパーティー会場に戻って、偽りの笑顔を振りまく気力は一滴も残っていなかった。
コンコン、と控え室のドアが控えめにノックされ、静かに開いた。
そこに立っていたのは、私の専属秘書である長谷部誠だった。私を心配して、様子を見に来てくれたのだ。
私は涙で濡れた顔のまま、誠さんを見上げて、ポツリとこぼした。
「ねぇ、誠さん……。私、もう帰ってもいいかな?」
すべてを諦め、疲れ果てた私のその問いかけに、誠さんはただ静かに、何かを堪えるような痛切な瞳で私を見つめ返していた――。
86章に続く




