『9』
「あら……」
不意に彼女の足がもつれ、バランスが崩れていく。
それは明らかに演技ではなく、彼の目にも異常が感じ取れる。
トワはその場に立ったまま、一瞬静観していた――はずだった。
だが気が付けば、自分の腕には彼女の温もりと体重が確かに伝わっている。その妙な感覚に、眉をひそめ訝しげに視線を落とせば、自身の腕がいつの間にかユリウスの細い腰を支えていた。
(なぜ俺は、この女を助けた?)
体が勝手に動いたことに驚きを覚えるも、冷静に自己分析しながら、ぶっきらぼうな様子で口を開く。
「大丈夫か?」
「ええ、ただ少し……目眩が」
短く告げられた言葉。しかし、その声は普段より弱々しく、息遣いも荒い。額には薄く汗が滲み、頬が微かに紅潮している。
――普段の彼女ならば、こんな隙を見せることはないだろう。
トワは異常をすぐ察知し、軽く鼻を啜る。
瞬間、嗅ぎ慣れぬ奇妙な香りが鼻腔に侵入し、不快な違和感を覚える。
「すぐに外へ出るぞ」
短く告げると、ユリウスを躊躇なく抱き上げた。
その動きは無駄なく洗練され、あまりにも自然だったが――それは無意識的。むしろトワの思考は別の問いで満たされていた。
(……どうして反射的に手を伸ばした? ユリウス助ける必要も無かっただろ?)
自問を繰り返すものの、腕に伝わる温かな感触が、その冷静な理性を静かに掻き乱し続けるのだった。
◇
屋敷の外に出ると、冷たい風が二人を包み込む。
トワは庭園のベンチにユリウスを静かに下ろし、思考を巡らせる。
(あの様子は間違いなく演技ではない。一見、貧血にも思えたが、部屋には微かに薬品のような匂いが漂っていた。恐らく催眠作用を持つ薬か何かだろう。だが一体何の目的で――)
脳内で状況の整理をしていると、彼の肩に頭を置いたままユリウスが弱々しく問いかける。
「トワ様、急いで室外に出た理由は?」
不安定に揺れるその声。トワは静かに彼女に視線を向け、冷静に答えた。
「……妙な香の匂いがした。催眠効果のある香か、あるいは――」
彼女の質問に、トワは途中で言葉を切る。それ以上話すべきか、迷いが生じたのだ。
(本調子ではないこいつに話したところで意味などあるのか?)
トワは険しい表情のまま、考えを巡らせた。
しかしそんな彼をよそに、ユリウスは鋭さを失っていない様子で言葉を紡いだ。
「なるほど。もしお香の場合でしたら犯人の手口の一つであり、失踪した令嬢たちも、おそらくその手口にやられてしまったと。そして――そのお香には催眠効果、又はもっと危険な薬品が使われている可能性がある。そう仰りたいのですわね?」
(あの短い言葉だけでそこまで推測できるのか。この状態でも思考の切れ味が落ちていないとは、侮れない女だ)
一瞬驚き、そして密かに感心しつつ、トワは珍しく優しげな表情を浮かべ答えた。
「ああ、まだ憶測の域は出ないが、その可能性は十分に考えられる。それに――お前が足跡に気付いてくれたおかげで、内通者、又は協力者がいることに確信を持てた。感謝する」
そう告げる彼の声音もまた、不自然なまでに柔らかく、普段の冷徹さを感じさせない。
そんなトワの心境など気に留める様子なく、ユリウスは今後の方針を確認するように口を開いた。
「では、今後はその可能性も視野に入れ、調査を広げるという形でよろしいのでしょうか?」
彼女の確認にトワは一瞬考え込むような間を置いた後、軽く頷く。
「……そうだな。この事件が解決するまで、無駄な動きは許されない。お前もそれを念頭に置き、無理はするな」
その言葉は冷たさを含んでいるものの、どこか仄かな温かみを感じさせた。
そんな彼の態度に、ユリウスはわずかに目を細めたように見えたが、すぐにいつもの打算交じりな表情で返す。
「……ええ、お気遣い感謝いたしますわ」
しかし、その声には微かな戸惑いが滲んでいるよう。
そんな彼女のことなど特に気にすることなくトワは、再び目線を前へ向け――静かな沈黙が、二人の間に訪れる。
風がそよぎ、甘い花の香りを含む微かな匂いが、二人の間を通り過ぎていく。
ユリウスは、その風を一度深く吸い込むような仕草を見せた後、静かに疑問を口にした。
「香りの件ですが――どのような匂いだったのでしょうか?」
「……あの匂いが分からなかったのか?」
「ええ。私にはなんの香りも感じられませんでしたから……」
その返答に、トワの表情は眉根を寄せた。
(なんだ、この違和感は――ユリウスの嗅覚が劣っているだけか、それとも香りを認識するには条件があるのか……)
疑念が脳を支配し始める感覚。
彼はなにかまだ見落としでもあるのか、そう訝しみながらも、“薔薇のように甘く上品だが、どこか薬品臭さを帯びた香り”とだけ答えた。
刹那、ユリウスの表情が僅かに曇る。
「その香りが事実なら、どこかで……」
ボソリと奥深くに眠る記憶を掘り起こすように呟いた。
「それはどこでだ?」
トワは、尋問するように彼女との間合いを詰めた。答え次第では真犯人に大きく近づける――そんな焦りにも似た気持ちが彼を逸らせたのかもしれない。
しかし、その目論見は直ぐに砕かれた。
「それが――どこかで覚えがありそうなのですが、その瞬間だけ切り取られたかのように思い出せないのです」
ユリウスは自身に疑念を抱くように頬へ手を添える。
その言葉を聞いたと同時に、彼はハッとした表情を浮かべた。
(記憶の消失――失踪した令嬢たちと同じ症状だ。だが、これは偶然か?)
新たな疑問が次から次へと生まれ、思考の滑車がぐるぐる回り続ける。
(待て、狙われた令嬢たちは皆、パバートと関係がある者ばかりだったはず。しかしドゥレッツア家の娘は、あのパバートとは接点がなかったはずだ。……何かがおかしい)
そこまで思考を凝らすと、トワは小さく息を吐き、一言。
「おい、今夜は私の屋敷に泊まっていけ」
「は? ……何を仰っているのですか?」
◇




