『37』
静かな水辺の広場。木枯らしが草木を揺らし、水面が夕陽に照らされてキラキラと輝いている。
そこに佇む一組の男女――ユリウスとトワは、ベンチに腰掛け、互いに沈黙を守っていた。
風が彼女の髪をそっと撫で、静寂が二人を包み込む。
(この関係も、今日でおしまいですわね……)
ユリウスの胸に、名状しがたい喪失感が広がる。
二人の関係は所詮、“偽りの婚約者”――どれほど願っても覆せない現実。この事件を終えれば、トワとは別々の道を歩む。その事実が、彼女の心を重い鎖のように締め付ける。
だが、そんな沈黙を破るようにトワが意を決した声で口を開いた。
「ようやく……解決したな」
静かな前置きの後、彼は慎重に言葉を続ける。
「今後のことなんだが――」
だがその裏では、胸に強い緊張が走っていた。
(……今しかない。このまま終わりにはしたくない)
言葉を間違えれば、全てを失うかもしれないという恐れが彼を支配し始めていた。
その言葉を聞き、ユリウスがゆっくりと顔を上げる。瞳には雫が薄らと浮かんでいたが、それを隠すように努めて冷静な声音で応える。
「……ええ、そうですわね。もうこの関係も終わり。私たちは婚約者としてではなく、別々の――」
それを聞いた途端、トワは内心で動揺を隠しきれず慌てる。
(違う、そうじゃない――そんな話をしたいんじゃないんだ)
焦りに胸を掴まれたように、彼は無意識に彼女の言葉を遮った。
「いや、そうじゃなくてだな……」
だがその様子は普段の冷静さが影を潜め、まるで次の言葉を探すように、もどかしく視線を彷徨わせることしかできない。
(何と言えば――どうすれば、お前に伝わる……?)
口にする言葉がどれも陳腐で空虚に感じられ、焦燥ばかりが募っていく。
そんな彼にユリウスは、思わず怪訝そうに首を傾げた。
「……?」
胸が苦しくなるほどの戸惑いを隠しつつも、彼女はじっとトワを見つめる。その瞳の奥では、別れの言葉を聞きたくないという秘めた願いが微かに揺れているよう。
(そんな顔をさせるつもりじゃなかった……)
いつも冷静でいられた彼だが、この時ばかりは鼓動が痛いほど高鳴り、彼女にかける言葉を必死に探している。
だが迷いはなかった。彼の心にあるのはただひとつ――
トワは決意を固めるように小さく息を吸い込むと、彼女から目を逸らさず真っ直ぐに告げる。
「このタイミングで言うべきではないかもしれないが……。ユリウス――お前さえ良ければ、俺の正式な婚約者になってくれないか?」
頬に熱を感じつつ、トワは静かに彼女の返事を待った。胸の奥では期待と恐怖が渦巻いている。
一方、ユリウスはその告白に息を呑んだ。一瞬、世界の音が途絶える。言葉が意味を成さず、理解も追いつかない。ただ喉が締め付けられ、唇からは儚い吐息しか漏れない。
「えっ……?」
ようやく震える声で言葉を押し出しても、それ以上の言葉はどれも形にならず、胸の奥に溶けていくばかり。捨てられる覚悟をしていた彼女にとって、これは予想外以外の何物でもない告白だった。
呆然とするユリウスを見て、トワは内心で静かに落胆する。
(惹かれていたのは俺だけか……。これからも赤目の悪魔として一生独り身を貫くのも悪くないかもな)
自嘲的な想いを胸に、彼は気まずげに視線を逸らすと、逃げるようにその場を去ろうとする。
「さっきの言葉は忘れてくれ……」
だが、その瞬間――ユリウスの手が震えながら彼の腕を掴む。
そこに打算などは一切ない。考えるよりも先に、体が、本心が――彼を行かせてはいけないと訴えかけていた。
「まっ、待ってくださいませ」
その本音に向き合うように、ユリウスの指先が緊張で震えるが、決してトワの腕を離さない。そんな彼女の反応に驚き、トワは戸惑いながらも振り返る。
「え……?」
彼の瞳は戸惑いに揺れ、彼女の意図は理解しきれていないよう。その態度に、ユリウスは自問自答を繰り返す。
(ここで私自身の気持ちを打ち明けなければ、女として――いいえ。この先永遠と後悔してしまいますわ)
そして、ひとつの答えを見つけた彼女は、意を決し真っ直ぐにトワを見上げ確認する。
「さ、さっきのお言葉は……その……本心ですか?」
頬が赤らみ、不安と期待が交錯する瞳が潤む。
それでも、彼女の視線はトワだけを真っ直ぐに捉えていた。
その純粋な眼差しに、トワの胸が激しく高鳴る。
(ここまで気持ちを晒した以上、もう引き返せない――いや、引き返したくもない)
トワは迷いを振り払い、真剣に彼女を見つめ返すと、静かながらも芯の通った声で告げた。
「ああ。俺はいつの間にかお前に惹かれていたらしい。もう偽りの婚約者として見られない。これからは正式に俺の隣にいて欲しいと思っている」
そう言い切る彼の耳は赤く染まり、もはや“赤目の悪魔”という不名誉な勲章は消え失せ、一人の人間として本心が溢れていた。
一方のユリウスは、その言葉に一瞬目を瞬かせ、まるで夢でも見ているかのように再び確認する。
「その言葉に……嘘偽りはないですわよね?」
「ああ」
「やっぱり嫌だと言っても、撤回はさせませんわよ?」
「ああ」
「私から逃げ出したいと思っても、もう逃がしませんわよ?」
「ああ……。って、お前、そんなに疑わなくても――」
トワが困惑気味に苦笑を漏らした瞬間、彼の身体に強い衝撃が走る。
それはユリウスが彼の体に飛び込んだ甘美な衝撃。
彼女はトワの胸に顔を埋めると、すぐに顔を上げ涙を浮かべながらも彼をまっすぐに見つめ口を開く。
「私も、トワ様のことをお慕いしております。ですから――覚悟しておいて下さいませね?」
その彼女らしい言葉に、トワは一瞬驚きで目を見開く。
(言葉は普段と変わらないが――まさか、ここまで感情を見せてくれる日が来るとは……)
内心で驚きつつも柔らかな笑みを浮かべ、その温もりを受け止めるように彼女を抱きしめ返す。
「ああ。お前の言う覚悟がどんなものか、確かめてやるさ」
挑発的な口調に、ユリウスは小さく笑いながら応じる。
「ふふ、それなら精々後悔なさらないように――」
しかし、彼女が最後まで言葉を紡ぐことはなかった。その瞬間、トワは言葉を遮るように彼女の唇を奪う。
「――っ!」
一瞬驚きに瞳を見開いたユリウスだったが、その温かな感触に胸が溶けるような甘い痺れを感じ、ゆっくりと目を閉じて彼の口付けを受け入れる。
(トワ様がこれほどまでに情熱な方だったなんて……)
(俺がこんな風に誰かを求める日が来るとはな……)
夕暮れの柔らかなオレンジ色が二人を優しく包み、水面の煌めきがまるで二人の幸福を祝福するように輝いている。
二人は言葉の代わりに幾度も唇を重ね、互いの想いを確かめ合う。穏やかな風がそっと髪を揺らし、まるでこの瞬間だけ時が止まったかのような、甘く静かな世界が広がっていくのだった。
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