『18』
それから数日。
トワに疑いが掛けられた日の深夜から、突如として激しい豪雨が領地全体を襲った。
連日降り続いた雨の影響で河川が氾濫し、道が寸断され、ユアマシャール邸からの移動手段が失われてしまった。
無理に帰ることも可能だっただろうが――危険が伴うため得策ではない。
そのせいで、彼は数日間この屋敷に留まらざるを得なくなっていた。
その間にユリウスへ弁明する機会は幾度もあったはず。しかし、彼はその一歩が踏み出せず、胸の奥で燻る苦しみに苛まれ続けていた。
(無様なものだな……)
自嘲が胸を深く抉り、トワの表情に疲労と苦悩、そして微かな救いを求める影を落としていく。
しかし、その変化に気づく者など誰一人存在しない。
そのせいか、彼の孤独感は日に日に増幅し、やがて視界に映るすべてを憎ませるほどに深まっていった。
――理性の糸が切れるまで、そう遠くない。
もしここで理性を失えば、誰かを傷つけてしまうかもしれない。その自覚はあったが、トワは自分の本音から目を逸らし続けた。
(たかだか弁明するだけのことだというのに……俺はなぜそれができない? ただ、俺ではない。犯人は別にいる。お前の協力が必要だ。そう伝えれば済む話だろう。それなのに……)
心の中で問い続けても、返ってくるのは深い闇。
それは虚無を飲み込むさらに深い暗黒であり、底の見えない穴へと引きずり込もうと渦巻いている。
いっそ闇へ堕ちてしまおうか――そんな破滅的な思考が頭をよぎった瞬間、トワはふと立ち止まった。
(……逃げたところで、現実は何も変わらない)
冷たい闇の中で、一筋の決意が芽生える。
(最後にもう一度だけ、チャンスを貰えばいい)
心の中で小さく呟くと、彼は懐から壊れかけたアーティファクトを取り出し、ぽつりと独り言を漏らした。
「これが役に立つとは思えないが……」
微かな決意と諦念が入り混じるその声は、静かに空気の中へと溶けていく。
トワはアーティファクトを優しく撫でると、再び懐へとしまい――
その夜、九時頃。
屋敷の廊下は既に薄暗く、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
そんな静寂を打ち破るように、コツン、コツン――と革靴の音が不気味に響き、やがてとある扉の前で止まる。
躊躇うように持ち上げられた手は、扉の前で何度も止まっては動きを繰り返す。しかし、結局諦めたように小さく影が揺れた。
(俺の行動は、無意味でしかないだろう……)
胸中にそんな考えが浮かび、トワは踵を返しかける。
だがその瞬間、どこかで嗅いだことのある甘やかな香りが鼻腔を掠めた。
『ユリウスが危ない』
直感が警鐘を鳴らし、トワは躊躇うことなく扉を蹴り破った。
「ユリウス、大丈夫か!?」
咄嗟に呼んだその名前に、胸がドキリと小さく跳ねる。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
薄暗い室内には柔らかな薄桃色の家具が並び、女性らしい空間がぼんやりと浮かび上がる。
だが、その優しい雰囲気とは裏腹に、漂う香りは異様な気配を孕んでいた。
(この香り……やはりあの時の――)
思い出されるのは、ドゥレッァ伯爵の邸宅内で嗅いだあの香り。トワは眉間に皺を寄せながら、素早くベッドへ向かう。
(お願いだ、いてくれ)
願いながらも勢いよく天蓋のカーテンを開けるが、そこにユリウスの姿はない。
嫌な予感が警鐘のように鼓動を響かせ、冷たい汗となって背筋を伝う。
ジャリッ。
微かに何が砕けるような音が耳に届く。それを聞いたと同時に、トワは即座に窓際へ駆け寄り、閉ざされていたカーテンを一気に開け放った。
彼の眼前に現れたのは、意識を失ったユリウスを抱える“黒い影”
薄闇の中、深くフードを被った人物の輪郭がぼんやりと浮かぶ。その顔の大半は影に隠されており、闇と溶け合い、人ならざる異形めいた不気味さを漂わせている。
ヒラヒラと揺れる黒いマント。開かれた窓からは、微かに湿った雨の香りが滲んでいた。
トワはその影をじっと見据え――赤い瞳と視線が交わる。
(俺と同じ、赤い目……だと?)
その異様な存在に一瞬思考を奪われかけるも、トワはすぐに我に返り、鋭く問いかけた。
「ユリウスをどうするつもりだ!?」
言い知れぬ怒りを滲ませた声が、薄闇に包まれた部屋を鋭く切り裂く。
しかし、“黒い影”は不気味な笑みを浮かべたままトワをじっと見据え――不意に窓の方へと視線を流す。
(まさか、逃げる気かっ!)
瞬間、影が窓へと踏み出すより早く、トワは考えるより先にそのマントを掴み、強引に引き寄せた。
「離せ」
自身と酷似した低く唸る声で命じられるが、トワは決して応じない。
「彼女をどうするつもりだ?」
問い詰めても、影は沈黙を貫き、トワの手から逃れようと激しくマントを引く。
阻む男と抗う影。二人の間で攻防が繰り返され、やがて微かな布の裂ける音が響く。
それでもトワは手を緩めない。この手を離せばユリウスは――
説明できぬ危機感に駆られ、冷静な思考はとうに失われていた。
「離せ! 私の命令が聞けないのか!」
焦りを見せる影に、トワは冷静を装うようにして言い放つ。
「ならば、彼女を返せ。それが条件だ」
しかし、その声音は普段の彼からは程遠く、抑えきれない感情が滲み出ていた。
それは、彼自身も理解できぬほどの怒り。
理由など問う余裕もなく、ただ目の前の敵を制し、彼女を救うことだけに集中せざるを得なかった。
そんな彼の行動は、きっと影からすれば予想外の出来ごとだったのだろう。まるで王族のような威圧を含む声で激怒する。
「お前、私を誰だと思っている? 神だぞ。そんな神に楯突くつもりか!?」
微かに香る歪んだ支配欲。
しかし、トワはそんな言葉を真に受けるほど、馬鹿でも落ちぶれてもいない。
「ふっ、神など存在するはずがないだろう。それに、令嬢ばかりを狙い、その罪を俺に擦り付けるような者が神を名乗るとは、笑止千万だ」
皮肉を投じながら、影を強引に引き寄せ額を叩きつけた。
激しい衝撃が脳を揺らしたが、その痛みを感じる余裕はない。
わずかによろめきつつも立ち続けるトワに対し、影は数歩後ずさると、怒りを滲ませた声を荒らげ、鋭く睨みつけた。
「貴様……っ!」
しかし――
全てを言い切る前に何か気づいてしまったのだろう。
影は苛立たしげに舌打ちすると、ユリウスを乱暴にトワへ投げつける。
瞬間、トワはユリウスを抱き留め、安否を確認しようとした。しかし、その一瞬の隙を突いて影は窓ガラスを破り、闇の中へと姿を消してしまう。
「逃げられたか……。だが、一瞬だけ赤と翠の瞳に見えた気が……俺の見間違いか?」
なぜ突然、瞳が赤と翠のオッドアイに変化したのか――
トワは破られた窓を見つめ、静かに思考を巡らせる。
(あの瞳のからくりはなんだ? 目の色を変えるアーティファクトでも存在するのか?)
本来なら、犯人が逃げてからまだ時間が経っていないため、追いかけることなど造作もないはず。しかし、トワの体は動かなかった。いや、動けなかった。
それは意識など介在しない、本能的な感情が作用した結果なのやもしれない。
トワはユリウスをベッドに横たえると、その寝顔をじっと見つめる。
浅い呼吸を繰り返すユリウスは、まるで眠れる幻影のように静かで、いつもの鋭さを微塵も感じさせない。
そんな彼女を見つめているだけで、言い知れぬ不安が波のように押し寄せ、彼の胸をじわりと締め付けていく。
(早く目を覚ましてくれ)
トワの中に募るのは、焦りにも似た切実な願い。しかし、同時に別の疑問が彼の心を掻き乱した。
(……なぜ俺は、犯人を追わなかった?)
思考が絡まり合う中で次々と理由を探る。
(駒が危険に晒されるのを嫌ったのか? それは違うだろう。駒ならば補充すればいいだけのこと……)
言い訳のような思考を繰り返すたび、答えは遠ざかる。
しかし、トワは気づいていた。いや、未知なる感情に恐怖を抱き、あえて無知を装い必死に目を背けていただけかもしれない。
彼女に惹かれつつあるという、受け入れがたい事実に。
「……俺は――お前が好きなのか?」
低く掠れるような声で、彼は自問する。
口に出せば答えが見つかる気がしたが――返ってきたのはただの沈黙。
「そんなわけないか。俺が誰かを好きになるなど……」
自虐的に呟きながらも、何故か彼女のことが気になって仕方ない。
「この言い知れぬ、不快で落ち着かない感情の正体を……ユリウス、お前なら分かるのだろうか? ああそうだ。お前が目を覚ました時、弁明させてくれ。それを聞いた上で、俺を犯人だと思うなら、それでも構わない。だが――」
瞼を伏せながらも、理解できぬ自身の感情に目を逸らすように、トワは脈絡なく彼女へ声を掛け続ける。
しかし、それはあまりに滑稽に思えてしまったのだろう。
「いや、俺は……何を言おうとしているんだ……」
小さく囁きながらも、僅かに震える手で彼女の頬に触れようと伸ばした刹那、騒がしい足音が廊下から響いてきた。
「……来たか」
彼は短く呟き、すぐさま手を引っ込める。
だが、その行動は遅すぎた。
蹴り破られた扉から、ソフィラスが従者たちを引き連れて現れる。
彼らの目には、自分がユリウスに何かしようとしているように映っただろうか? そんな不安がトワの胸を刺した――その瞬間。
「トワ様! ユリウスに何をなさろうとしているのですか!?」
ソフィラスは、状況を確認することなく彼を非難した。
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