『14』
彼女を乗せた馬車がユアマシャール家の門をくぐると、そこには今か今かと帰りを待ち侘びていたであろう父と母の姿があった。
(数週間ほどの不在でしたのに、まるで数年ぶりに再会したかのようですわね)
ユリウスは小さな微笑を浮かべながら、馬車から優雅に降り立った。
瞬間――
『ユリウス!』
父と母が駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。
二人の瞳に滲む涙。
わずかに腕を震わす母と、呼吸を乱す父。その立ち振る舞いから、彼女が戻らない間に膨らんだ不安が、どれほどのものだったか窺える。
(ふふっ。お二人とも、まるで子供のようですわね)
ユリウスは小さく微笑みながら軽く抱擁を返したが、それは数秒のこと。すぐに表情を引き締め、冷静な口調で尋ねた。
「お父様、お母様、私の身代わりとなった従者はどちらに?」
その言葉に、二人は一瞬驚いたように目を瞬かせるが、すぐに表情を戻すと、母エーデルが静かに答える。
「……案内するわ。こちらへ」
その足取りはどこか不安げで、何かを隠しているように窺える。
(お母様……?)
疑念を抱きながらも、彼女は黙って着いていく。
屋敷の最奥。
ユリウスたちが進むにつれて、不吉な音が大きく響いていく。
何かを訴えるようなその音は、薄暗い空間に不気味な余韻を残し、従者や両親の肩をびくりと震わせた。
しかし、ユリウスだけは冷静さを保ちながら歩みを進め続ける――少なくとも外見上は。
(この声は……なにかしら? まさか、お化けということは……)
子供じみているとは自覚しているが、彼女は怪奇なものが大の苦手。そのため、鼓動はゴングのように大きく鳴り響き続けていく。
だが、その動揺を誰にも悟られてはいけない。
知られることは恥である。そんな高慢さが彼女に平静を装わせていた。
やがて、人目を避けるかのようなひっそりとした部屋へ近づくにつれ、不穏な呻き声はますます大きくなっていく。
「かよ……お赦……下さい」
部屋の前に辿り着くと、不気味な声が耳元ではっきりと響いた。
震えるような、途切れ途切れの言葉。それでも、その切実さだけは扉越しからでも痛いほど伝わってくる。
しかし、怖いものは怖い。
(何かしら、この声……)
彼女は扇を軽く握りしめ、小さく瞳を揺らした。
もしかすると、この扉の先には、既に息絶えたナニカが未練を抱え、ずっと何かを訴えているのかもしれない。そんな嫌な想像が頭から離れない。
だが、扉を開ける者など皆無。ユリウスは軽く息を整えると、意を決して扉を開き――すぐに後悔した。
薄暗い部屋。
窓は小さく、陽の光はほとんど届かず陰湿。そこには髪が抜け落ち、見える範囲の肌には鞭で打たれたような蚯蚓腫れや、蝋を垂らされたたような爛れが浮かぶ、痩せ細った一人の女性が座り込んでいた。
彼女の瞳は焦点が合わず、虚空を見つめながら同じ言葉を繰り返している。
「か……よ……赦」
まるで壊れかけたアーティファクトのように。
(これは……いったい何が……)
ユリウスは内心で戦慄しつつ、事件の糸口を掴もうと静かに問いかける。
「何があったのですか?」
瞬間。
「ひいいいいい!」
絶叫が部屋の中に響き渡り、女性はガタガタと震えながら後ずさる。
「私は……ユリ……あり……ウス……今……の……らっし……ります……だ、ら……ぶた……いで……私に……罰を……」
言葉はか細く途切れ、まるで要領を得ない。
“神”“罰”といった単語だけが浮き彫りになり、不気味な影を落としている。
ユリウスは動揺を隠し、脳内で断片的な情報を整理しようと試みた。
(罰……? 本物の私では無い? 私を狙っていたのは本当のようだけど……ぶたい? 神? 何を伝えたいのかしら……)
彼女の視線は鋭く、しゃがみ込んだ従者の様子をじっと観察する。すると従者は、ひどく震える声でさらに言葉を紡いだ。
「……様は、神……あ……ます。……私に……私に慈悲を……」
(この状況……ただの恐怖だけでは説明がつかないですわね。彼女は何かを見た……?)
考えても迷宮のように入り組み、答えなどないような錯覚さえ覚える。
だが、彼女は必死に従者の言葉に耳を傾け続けた。
「よ……どう……下さい。
本物の……ウス様……では……ません……
ユリ、様……今……別……屋敷……い……ります……
だ、ら……ないで……私は……耐え…………せん……」
幾度繰り返し聞いても、どこか別の世界に囚われているような狂気を孕むその言葉。
ユリウスは眉間に皺を寄せながらも、彼女の言葉を何度も反芻し、断片を繋ぎ合わせる。
そして、ハッとした瞬間、彼女の言葉が脳内で一本の線に繋がった。
(もしかして、彼女が言いたいのは――)
『神よどうかお赦し下さい。私は本物のユリウス様ではありません。ユリウス様は今、別の屋敷にいらっしゃります。だからぶたないでください。私はただ、指示を受けただけです。私にはそのような重い罰、耐え切ることが出来ません』
『――様は、神であります。どうか、神の御心で、私への御慈悲を』
(恐らく、これが彼女の言いたいとする言葉)
そう結論づけるユリウス。
しかし、その言葉を理解してもやはり確信を得る材料が足りない。
(犯人は、自らを“神”と称しているということかしら? そして、この従者に酷い仕打ちをした。ですが――)
これまで起こっていた令嬢誘拐事件。
その中で、拷問を受けたことも、彼女のように錯乱状態に陥った例も、なに一つ聞かされていない。
その事実が余計、ユリウスの思考を混乱に貶めていく。
すると、彼女の瞳が焦点の合わない視線と交わる。
瞬間、女性はまるで、これで救われると言いたげに、瞳をうっとりと蕩けさせ、新たな言葉を紡ぎ始めた。
「ああ……神よ……私は……私は、ようやく――貴方様への忠誠を誓えるのですね……」
その言葉に、ユリウスを含め周囲の者たちは、彼女が落ち着きを取り戻したのかと期待した。
しかし――
「――っ! 赤い目が……赤い目が近づいてくる……私を見ないで……お願いです、悪魔……貴方様は悪魔でございます……!」
彼女は震える身体で声を荒らげると、頭を抱え込み、断片的な呪文のような言葉を吐き続けた。
だが彼女は止まらない。いや、止められないのかもしれない。
「神よ……悪魔が……塔に……塔の上で……神が悪魔へ堕ちる…………全ては神の御心……ああ、罰を……罰を与えないで……」
狂気を具現化したかのような言葉。
それはユリウスの中で、不吉な予言のように響き続ける。
だが、その言葉には具体的な根拠や核心を突く内容が一切ない。
(赤い目……塔……悪魔……それは一体どういう意味なのかしら?)
心の中で呟きながらも、その答えを導き出せるような材料は手元になかった。
だが、“赤い目”という言葉が頭の中で何度も反響し――ふと、彼女の脳裏に冷徹な男、トワ・レイヴンの顔が浮かび上がった。




