第2話 黒い瞳と途切れる世界
今日という日を過ごす中で、出会う情景、交わす言葉、風の匂いのすべてに「知っている」という感覚が付きまとっていた。けれど、どれだけ記憶の引き出しをひっくり返しても、過去に同じような経験をした記録はない。自分がゆっくりと壊れていくような感覚に、じわじわと恐怖が広がっていく。
やがて放課後を告げるチャイムが響き渡った。
生徒たちが帰路につこうと片付けを始め、校舎が徐々に静まり返っていく。自分の机の脇に、すっと人影が立った。
見上げると、藤堂詩織が立っていた。
「……あの、春原くん。少しだけ時間を貰えないかな」
詩織の声は繊細で、風になびく鈴の音のように透き通っていた。
「校舎裏で、話したいことがあるの」
断る理由も、断る気力もなかった。大地は重い身体を引きずるようにして立ち上がり、彼女の後を追った。
渡り廊下を抜け、普段は誰も立ち入らない校舎の陰へ向かう。頭上を覆う雲は低く垂れ込め、薄暗い影が地面を這っていた。湿度を含んだ冷たい風が頬を撫でる。
雨が降り始める直前の、あの重たい空気の中に放り込まれたかのような嫌な予感を覚えた。
校舎裏の湿った土の匂いと、コンクリートの冷気が混ざり合う空間で、向かい合う詩織の唇が揺れる。
「好きです。私と付き合ってください」
彼女の告白の言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥を激しい痛みとともに既視感が駆け抜けた。
理由のわからない既視感だ。衝撃的なほどの確信をもって、この光景をどこかで見たことがあると感じた。彼女の立ち姿、揺れる制服の裾、雲の切れ間から覗く暗い空、そして彼女の口から紡がれた言葉の響きまで、すべてを知っている。
だが、そんなはずはない。自分は詩織から告白を受けたことなど、一度もないはずだ。
困惑と、脳を刺すような激しい頭痛に耐えながら、大地は必死に言葉を探した。体調の悪さも手伝って、とても誰かと付き合えるような状態ではない。それに何より、彼女に対する原因不明の恐怖が、心の中で大きく渦巻いていた。
「ごめん。気持ちは嬉しいけど、付き合えない」
言葉を選びながら、できる限り誠実に断った。断る理由を付け加えようと口を開かけ、その動きは完全に停止した。
その瞬間、詩織の瞳から光が消えた。
あまりにも唐突だった。さっきまで少女らしい恥じらいと緊張を宿していた瞳が、一瞬にして光を失い、深く静かで、絶望的な暗闇がそこに宿る。底なしの沼のような、何も映さない黒い瞳。
「私と付き合ってくれさえすれば、何度も何十何百何千と、あなたを殺さなくてすんだのに。どうして私を選ばないの?」
詩織は淡々と、まるで今日の天気を語るかのような情緒のない声で呟いた。
そして、聞き捨てならない言葉の意味を理解する間もなく、彼女は制服のポケットから素早くナイフを取り出した。銀色の刃が、暗がりの中で冷たく光を反射する。
「え……」
驚く隙すら与えられず、刃が胸の真ん中に突き立てられる。
鈍い音とともに、胸骨の間に刃が滑り込んでいく感覚。ワンテンポ遅れて、灼熱のマグマを直接流し込まれたかのような劇的な激痛が全身を駆け抜けた。
「があっ……!?」
激痛と衝撃で地面に倒れ込む。膝から崩れ落ち、湿った土の上に転がった。視界が急速に赤く染まり、口内に鉄の味が広がる。破れた肺から空気が漏れ、酸素を求めて喉がヒューヒューと惨めな音を立てて鳴った。
視界が揺れる中、詩織の足元が見えた。
彼女は倒れた身体の上にゆっくりと立ち上がる。感情の欠落した表情で大地を見下ろしながら、胸に刺さったナイフの柄の上に静かに片足を乗せた。そのまま、靴底を通じて、じわじわと自らの体重をかけていく。
「が、あ、ぁぁ……っ!」
深く、深く、刃が肉を裂き、骨を砕いていく感覚。体重がかかるたび、刃は胸の奥深くまで侵入し、重要な器官を容赦なく踏みにじっていく。全神経を焼き尽くすような過剰な痛みに、意識とは無関係に身体がガタガタと大きく痙攣した。
視界が真っ赤から真っ黒へ、そして最後に恐ろしいほどの真っ白な光に包まれる。
意識が途切れる寸前、詩織のつぶやきが聞こえた気がした。
『また、ダメだった……』




