【敗北】エナドリファン集合
一般棟の1階廊下を歩いていると、たまたま莉伊葉先生とすれ違った。「2人で話しませんか?」と言うので一緒に教員室へ向かった。かなり話しにくいから行きたくはなかったが、僕は面と向かって言われると断れない質だ。言われるがまま着いて言った。高専には職員室などなく、教員それぞれが部屋を持っている。今個室にいるのは2人だけだし、誰かが入ってくることもない。僕と莉伊葉先生は、立ったまま話を始めた。
「先週はすみません、莉伊葉先生。せっかく機会をくれたのに、やっぱり『書け』ませんでした。書こうとはしたのですが」
「それはこっちこそごめん、アタシも──」
「莉伊葉先生」
僕は、莉伊葉先生の口調が崩れるのを制した。
「すみません。
それはそれとして、あなたの状態を鑑みずに話していたのは事実です。それは申し訳ありません。尤も、カフェインの過剰摂取はどうかと思いますが」
莉伊葉先生は、頭を下げた。
「いえ、カフェインは嘘です。いや、摂取は事実ですが、昔ならそれでも書けました。張旭なんて酒に酔った上であれだけ凄い、歴史に残る書を書いていますから。ただ、手の震えは、その……」
「え、それは解決したって──」
莉伊葉先生は、動揺を隠せていない。
「駄目でした。多分頭が勘違いしてるんでしょう」
「そんな……」
「僕も、書けると思ったから半切を前に筆を握りましたし。まあそもそも、書けない理由は手じゃなくて心の問題でしょうね。とにかく、結局書けなかっただけで、先生は何も悪くありません」
僕は、莉伊葉先生ができるだけダメージを受けないよう気丈に振る舞うよう努めた。
「いえ、書くかどうか決めるのは香月さんです。そこに私の意思が介在するべきではありませんでした。すみません」
莉伊葉先生は目を逸らしている。
「介在……、そういえば莉伊葉先生は、僕に『書け』って言わないんですか?
回りの人はみんな言うけど、莉伊葉先生は言いませんよね」
「言って欲しいのか?そしたら『書く』のか?」
「カノちゃんが言うなら、いつでも『書こう』とはしたと思う」
カノちゃんは、大きく息をついた。
「それはさあ、重いよ奈々。
楽しいな、って思ってる時はアタシに感謝するだろうよ。でもさ、ツラくなったら同じ様にアタシを憎むってことになるよな?アタシに言われたからやらなくちゃならない、ってことに、奈々はなるよな?」
「そんなことない!僕が辛くてもカノちゃんを責めることなんかない!」
つい声を荒らげてしまう。
「奈々がどう思っていようが、『ああ、アタシがやれって言わなかったらなあ』と思うんだよ。今だって……」
「カノちゃんは優しすぎる。気にし過ぎる。そもそも、重さで言うならカノちゃんの方が20倍くらいあるだろう。何らかの法律に抵触しているぞ。
……それに、カノちゃんのお陰で今こうしていられる。
そうか、だがそれで今も悩んでいたのか。だが僕は今、自分の意志で『書こう』としている」
意思を固めた。それに、今年がラストチャンスだ。
「え、本当に?
いや、違う。ごめん、今私が間接的に─」
「いや、元々、また書こうと思ったところなんだ。いや、書きたくなったんだ。
それに、最初から言っているだろう。『書こう』とはしていたんだ」
カノちゃんは、どちらかといえば“嬉しい”よりも“心配”といった表情をしている。
「大丈夫だ、少しアテができたんだ」
カノちゃんは、僕の眼を強く見て、「ネナについてはどうなんだ」と訊いてきた。
僕は、「んふっ」と少し笑みを浮かべたような表情と、腕組みの仕草をした。
カノちゃんの双眸が潤む。ああ、やめてくれ、そんな顔されたら僕だって。
「お互い、少しゆっくりしようか」
カノちゃんは、お菓子をズラっと並べた。僕の好きなきのこの山は無い。
「こんなに甘いお菓子何種類もあって、よく太らないものだな」
もうここまで来たらタメ語だ。
カノちゃんは「そりゃあ、ほら」と言ってミックスナッツを取り出した。『ロカボ』と書かれている。
「1人のときはこれ食べてるからね。今並べてる糖質のバケモンは来客用だよ」
「相対的に自分の体型を良くする寸法だな」
僕が嫌悪を込めた表情をつくると、カノちゃんは「ここは日本の教育機関だからな」と笑った。
「昔はいつも、カノちゃんとこんな風に2人で笑って話してたのにな。いつから事務的な話ばかりになったんだろうな」
「それは奈々が相対的に後退したからじゃない?」
「カノちゃん、それ僕としては結構ライン越えだ」
カノちゃんが「え、あ、その」と慌てる。本当に僕のことを想ってくれているのだ。だから、長い付き合いのくせにこうやってすぐ狼狽える。だから僕にも応えたい気持ちがある。
「冗談だ。それより、5分くらい待っていてくれ」
「あ、えー……、何する気?」
「実は、研究室には書道用具を置いてあるんだ」
「置くなよ」




