星は見えなくても
外に出ると、空はいつの間にか暗くなり始めていた。さっきまで残っていた夕暮れの名残も薄れ、街灯がひとつ、またひとつとチカチカと点灯していく。秋に入ったばかりとはいえ、日が落ちるとやっぱり肌寒い。昼間はそれほど気にならなかった風も、今は少しだけ冷たく感じられた。
「少し、冷えますね…」
夜月さんは息を吐いて、自分の手を暖めている。身震いをする彼女を見て、私は思わず足を止める。
「大丈夫ですか…?」
「このぐらいなら、平気です。心配ご無用ですよ…♪」
「この気温なら、カイロとか手袋とか持ってきとけばよかったですね…」
そう言って、カバンの中を探るが特に何もなかった。コンビニにでも寄って買って行こうかと、夜月さんに気を遣わないでと断られた。
「もう少し、白花さんと一緒にいられる素敵なお誘いですが……時間も遅いですしそろそろお開きにしましょうか」
「そうですね……これ以上外にいて夜月さんが風邪引いたら大変ですから」
「もう、私そんなに貧弱じゃないですよ…っ」
夜月さんは頬を少し膨らませて、不満そうな顔をする。
その姿に私は思わず小さく笑ってしまった。
普段の夜月さんなら、こういうときも余裕のある笑顔を浮かべて、私のことをからかってくるのだろう。けれど今は、寒さのせいなのか、それとも今日一日で少し疲れたのか、いつもより素直な反応を見せている。
そんな彼女を見ていると、なんだか少しだけ得をしたような気分になった。
「……そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
「すみません。なんだか可愛くて」
「………」
何気なく口にした言葉だった。
けれど、言ってから自分でも少し驚いた。
今、私は何を言ったのだろう。
夜月さんも同じように驚いたのか、足を止めてこちらを見る。
「……可愛い、ですか?」
「……」
聞き返されると、急に恥ずかしくなってくる。
「いや、その……今の顔が、というか……」
「ふふっ」
「笑わないでください……」
夜月さんは楽しそうに笑う。先程まで私が笑っていたのに、今は私が笑われている。
その笑顔を見ていると、先ほどまでの恥ずかしさも少しずつ薄れていった。……本当に、調子の狂う人だ。
今日だってそうだった。
映画では私の手を握ってきたかと思えば、私を連れて、服まで選んでくれた。
そして今は、こうして何でもない会話をしている。
振り返ってみれば、随分と長い時間を一緒に過ごした気がする。
けれど――。楽しかった時間ほど、終わりはあっという間だった。
駅へ向かう道を歩きながら、私は何となく夜空を見上げる。空はすっかり暗くなっていて、街の明かりの向こうには曇り空が見えた。
「夜月さん、今日はありがとうございました。とても…楽しい一日になりました」
「…ふふっ、こちらこそですよ白花さん」
◆◇◆◇◆◇◆◇
夜月さんと別れた後、私はすぐに帰る気にはなれず、駅とは反対方向にある小さな公園へと足を向けた。
特に目的があったわけではない。
ただ、ひと息つける場所へ立ち寄っただけ。
公園に入ると、昼間なら子どもたちの声や遊具で遊ぶ音が聞こえてくるのだろうけれど、今はもうすっかり静まり返っている。
街灯に照らされたベンチを見つけ、私はそこへ腰を下ろした。
「……ふぅ」
背もたれに身体を預けると、ようやく肩の力が抜けた。
冷たい風が頬を撫でる。
さっきまで夜月さんも、この風を寒いと言っていた。そう考えると、ついさっきまで隣にいた彼女の姿が、また頭の中に浮かんでくる。
「……今日、楽しかったな」
誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりと呟く。
口に出してみると、改めてその実感が湧いてきた。映画を観て、街を歩いて、服を選んで。振り返ってみれば、本当にいろいろなことがあった。最初は、こんなに長い時間を一緒に過ごすことになるとは思っていなかった。映画を観終わったら、そのまま駅へ向かって帰る。
私は、そんな一日を想像していたはずだ。
それなのに、気がつけば予定していたよりもずっと長く、夜月さんと一緒にいた。しかも、不思議なことに疲れているはずなのに、嫌な疲れ方ではなかった。むしろ、身体は疲れているのに、気持ちだけは妙に満たされている。
「……変なの」
私はベンチの背もたれに身体を預けながら、消えそうな声が漏れた。
「————♪」
ふと、声が聞こえた。
今の私の声と同じぐらい小さな鼻唄だった。その音の方へと視線を向けると、一人の女性が空を向いて佇んでいた。暗くてよく見えないが、背は私より少し高く、顔つきは可愛らしく、だがどこか大人びている雰囲気があった。見たところ、歳は私と同じか少し上か……。
「……あら、こんばんは。いい夜ね」
私に気づいたのか声をかけてきた。まじまじと見ていたが不審に思われたようではないらしい。
「こ、こんばんは……あの、こんな所で何を……」
「——星を、見ていたの」
星、それを見ていたと彼女は言った。夜空を見上げるとなると、確かにそれしかないだろう。だが——。
「……星、ないですね。曇りだし」
曇天だった。
雲が空一面を覆っていて、星どころか月の姿すら見えない。こんな日に星を見るというのは、どう考えても無理がある。
けれど、女性は私の言葉を否定することもなく、ただ空を見上げたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「目を閉じれば瞼の裏に見えるわ」
「…………」
……なんか、急に深いことを言い出した。
私は言われた通りに目を閉じる。
もちろん、見えるはずがない。
だが、確かに星を感じるような気がする……。
そして、隣から小さく息を吐く音が聞こえた。
「……嘘ね。真っ暗だったわ」
「…………」
……この人、自分で言っておいて。私が感じたのが馬鹿みたいじゃないか。
「でもね、頭の中では綺麗な星が瞬いてるの」
そう言って、女性は自分の胸元にそっと手を添える。
「見えないものって、案外そういうものよ」
「……そういうもの?」
「ええ。目には見えなくても、自分の中にはちゃんと残っているもの。…………って、有名な誰かが言っていたような気がするわ」
女性はそう言って、目を瞑りまた空を見上げる。
「ところで、あなたはこんな時間にどうしたの?疲れた若い女の子が羽を癒すには、ほんの少し肌寒いと思うのだけど」
「……羽?」
自分も若い女の子だろうというツッコミを入れる前に、思わず聞き返してしまった。女性はそこで初めてこちらを向く。
「ええ。疲れたときには、羽を休める場所が必要でしょう?」
「……私、鳥じゃないですけど」
「ふふっ。そうね」
女性は楽しそうに笑った。
「でも、人間だってたまには羽を休めるでしょう?」
「……まあ、それは」
言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。
私はもう一度、ベンチの背もたれに身体を預けた。
「今日は……ちょっと疲れたので」
「そう」
「それで、家に帰る前に少しだけ休んでいこうかなって」
「なるほどね」
女性は納得したように頷く。
それから、少しだけ間を置いて私の隣を指差した。
「それなら、ここに座っていてもいいかしら?」
「……え?」
「ずっと立っているのも疲れるもの」
「あ、はい……どうぞ」
私が少し端へ寄ると、女性は隣に腰を下ろした。ベンチが小さく軋む。
先ほどまで一人だった場所に、今は見知らぬ女性が隣にいる。普通なら、もう少し緊張してもおかしくないはずなのに、不思議と落ち着いていた。
女性は何も言わず、再び空を見上げている。私もつられるようにして、同じ空を見上げた。
やっぱり星は見えない。
「……今日、何かいいことでもあったのかしら?」
「え?」
「さっきから、少し嬉しそうな顔をしているから」
「……」
私は小さく笑う。
「今日は、とても楽しい一日だったので」
「そう」
女性はそれ以上、詳しく聞こうとはしなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
「それなら、きっといい夜ね」
「……はい」
それからしばらくの間、私たちは何も話さなかった。
気まずいわけではない。むしろ、何も話さないことが不思議なくらい自然だった。
隣に座った女性は、相変わらず空を見上げている。私も同じように夜空を眺める。
「……今日は、ありがとうございました」
「え?」
「なんとなく……ここで休めてよかったので」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのかは分からない。女性は少しだけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「どういたしまして」
「……そろそろ帰らないと」
私はベンチから立ち上がる。
長い間座っていたせいか、足が少しだけ重かった。
「そうね。夜も遅いもの」
女性も立ち上がる。
「気をつけて帰るのよ」
「はい」
一度だけ頭を下げて、私は公園の出口へ向かう。数歩進んだところで、なんとなく振り返った。女性はまだそこにいた。
街灯の下で、また空を見上げている。
目を閉じて、星を——。




