有名な本と題名のない気持ち
夜月さんと別れた後、私はぶらぶらと廊下を歩いていた。特に行く当てもなかったので、昼休みの残り時間をどう過ごそうかと考えながら、なんとなく足を進める。
「……ん?」
ふと、窓の外を見ると中庭に人影が見えた。
……天瀬さん? 彼女はベンチに座って本を読んでいるようだった。私はなんとなく気になって、そちらへ足を向けた。
校舎に囲まれた中庭は、昼休みだというのに人影もまばらだった。
木々の葉が風に揺れる音だけが静かに聞こえてきて、教室とは違う落ち着いた空気が流れている。
そんな中で、私は天瀬さんの元へ向かった。
「あ……」
私が声をかけると、彼女は本から顔を上げてこちらを見た。
少し驚いたような表情を浮かべたあと、静かに私の名前を呼ぶ。
「……白花、さん」
その声を聞くと、なんとなく嬉しくなって、私も自然と笑みがこぼれた。
「こんにちは、天瀬さん」
「こ、こんにちは……」
彼女は小さく頭を下げると、再び視線を手元の文庫本へと落とした。どうやら読書中だったらしい。
邪魔してしまっただろうかと思い、謝ろうとしたところで、私は彼女の手にある本に気がついた。
「あ、それ」
それは最近話題になっている恋愛小説だった。
私も読んだことがあるけれど、とても面白くて、一気に読み終えてしまった記憶がある。天瀬さんも好きなのだろうか?
「面白いですよね」
私がそう言うと、彼女は少し驚いた様子で顔を上げた。
「白花さんも読まれたんですか?」
「はい。その本、今すごく人気なんですよ」
「……そうみたいですね」
彼女は再び視線を手元の文庫本に落とす。
その表情からは何を考えているのか読み取れないけれど、私は構わず続けた。
「私、あのシーンが好きなんです」
「どのシーンですか?」
天瀬さんは少しだけ興味を持ったように聞き返してきた。それがなんだか嬉しくて、つい饒舌になってしまう。
「主人公がヒロインに告白するシーンですよ! あそこは何度読んでも……」
「…………」
天瀬さんが呆然とした様子で黙ってしまった。
……あれ。
もしかして、ちょっと語りすぎた?
そう思った私は、慌てて頭を下げる。
「す、すみません! つい……」
「……いえ」
天瀬さんは小さく首を振る。
そして、再び視線を手元の本へと落とすと、ぽつりと言った。
「私も好きです」
「え?」
「あのシーン」
彼女はそれだけ言うと、また黙り込んでしまった。
でも、その表情はどこか嬉しそうだった気がする。
「そうなんですね!」
思わず声が大きくなる。
しかしすぐにハッとして、私は口を手で塞いだ。そんな私を見て、天瀬さんがくすっと笑った気がした。
なんだか恥ずかしくなってきて、顔が熱くなる。
けれど、それと同時に胸の奥が温かくなったような気もした。
まただ――。
この気持ちは、本当に……。
そう考えていると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。私は慌てて立ち上がる。
「すみません! そろそろ戻りますね」
「……はい」
天瀬さんは本を閉じると、ベンチから立ち上がった。
そのまま校舎へと歩き出すかと思ったけれど、不意に立ち止まる。
不思議に思って首を傾げる私に、彼女は振り返った。
「あの……白花さん」
「は、はい!」
思わず声が上ずってしまった。
天瀬さんは少しだけ迷うように間を置いてから、静かに口を開いた。
「また今度、その小説について語りませんか?」
「……え!?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
けれど、すぐに意味を理解すると、嬉しさが一気に込み上げてくる。
それはつまり、これからも彼女と話せるということなのだから。
「は、はい! 是非お願いします!」
私は大きく頷いて答えた。
天瀬さんはそんな私を見て微笑むと、今度こそ校舎へと入っていった。
私はその背中を見送りながら、胸の奥に残った温かさを感じていた。
やっぱり、この気持ちが何なのかはまだ分からない。
ただ――また天瀬さんと話せることが、今は素直に嬉しかった。




