いつか、恋した星空をあなたと──
放課後。
帰ろうとしていたところを、先生に呼び止められる。
「あ、白花さん!ちょっといい?」
「……?はい」
私は振り向く。先生が手招きしている。
先生の元へ行くと私に一枚のプリントを渡される。
「これ、恋守さんに渡しておいてくれる?あと、学校案内もお願い出来る?本来なら教師がすべきなんだけど、今ちょっと手が空いてなくてね……」
「え?私がですか?」
「そう!よろしくね」
先生はそれだけ言って去ってしまった。仕方なく、私は渡された紙を見ることにする。そこにはこう書かれていた。『恋守紬さんへ』と書かれている。どうやらこのクラスの連絡網らしい。
「あ、紬さんどこにいるか聞いてない…」
教室にはもう誰もいない。私は仕方なく一人で学校を歩き回る。
「紬さん…まさか帰ったんじゃ」
「あら、ことはじゃない。何しているの?」
——いた。グラウンドの鉄棒に足をかけて、逆さまにぶらがっている。
「何をしてるはこっちのセリフですよ…いやほんとに何してるんですか」
「……?先生に案内係が来るまで待っていてと言われたから暇を潰していたの」
「暇つぶし……」
「ええ。この学校、鉄棒の数が多いから」
「いや、だからって逆さまになる必要あります?」
「だって、ただ鉄棒をするだけじゃ面白くないじゃない。暇をどう楽しむかが、それが大事よ」
「それ、楽しいですか?」
「…………そんなに」
「……はぁ」
私はため息をつくと彼女を引っ張り上げた。彼女はスカートを手で払いながら立ち上がる。
「それで、あなたはどうしてここに?」
「ああ、先生から紬さんの学校案内を頼まれまして……今ちょうど探してたんですよ」
私がそう言うと彼女は少し驚いたような顔をした。そしてすぐに笑顔になった。
「……そう。ありがとう」
そう言って私の手を取ると歩き出した。その足取りは軽く、まるでスキップをしているかのようだった。
◆◇◆◇◆◇◆
案内を始めて、15分経ったぐらいだろうか。重要な教室は一旦教え終えた。
職員室、保健室に音楽室。あとは体育館や購買の場所なんかも一通り説明した。
転校してきたばかりなら、とりあえず困ることはないだろうというくらいには案内できたと思う。
「……これで、だいたい必要な場所は案内できたと思います」
私はそう言って、少しだけ肩の力を抜いた。
最初はただ先生に頼まれただけだったのに、思ったよりもあちこち歩き回ったせいか、なんとなく小さな達成感がある。
「そう。恋守のためにありがとう、ことは」
「いえいえ。先生に頼まれただけですから」
私がそう答えると、紬さんは小さく首を横に振った。
それから、廊下の窓へ視線を向ける。午後の光が差し込む窓の向こうには、校庭と校舎の影が広がっていた。
「それでも、助かったわ。転校初日だと、どこに何があるのか分からないものね」
「まあ、それはそうですよね」
自分がこの学校に入学したばかりの頃を思い出す。
教室の場所を覚えるだけでも大変だったし、初めて職員室へ行ったときなんて、どこから入ればいいのかすら分からずに廊下をうろうろしていた気がする。
「あの……一つ聞いても良いですか?」
「……?ええ、どうぞ」
紬さんは足を止めて、こちらへ顔を向けた。
突然の質問にも嫌な顔ひとつせず、いつもの穏やかな表情を浮かべている。
私は少しだけ迷ったあと、前から気になっていたことを口にした。
「紬さんって……なんで自分のことを『恋守』って呼ぶんですか?」
「……ああ」
紬さんは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
どうやら、何を聞かれたのかはすぐに分かったらしい。
そして少し考えるように視線を上へ向ける。
「いいでしょう、恋守。気に入っているの、この苗字」
「苗字が、ですか?」
「ええ。可愛らしくて、気に入っているの」
紬さんはそう言って、自分の名前を確かめるように「恋守」と呟いた。
普段から聞き慣れている言葉ではないからか、改めて聞くと確かに少し変わった響きがする。
でも、それを口にする紬さんは、どこか嬉しそうだった。
「だから、自分のことを話すときも『恋守』って呼ぶようになったのよ」
「なるほど……」
「もう、すっかり癖になってしまって……変かしら?」
「ちょっと変わってるとは思いますけど……」
私はそこで言葉を止めて、少しだけ考える。
でも、紬さんが自分の苗字を気に入っているのなら、それを自分で名乗ることがおかしいとは思わなかった。
むしろ、そこまで自分の名前を好きでいられるのは、少し羨ましいくらいだ。
「でも、紬さんらしいと思います」
「ふふっ。そう?」
「はい」
紬さんは嬉しそうに笑った。
「それなら、恋守はこれからも恋守ね」
「……なんか、ややこしいですね」
「そうかしら?」
紬さんは小さく笑った。
「それに、自分の名前を可愛らしいと思えるのって、素敵なことだと思わない?」
「……まあ、そうですね」
「ええ。恋守は、この呼び方が気に入っているもの」
そう答えると、紬さんはまた穏やかに笑った。
そんなやり取りをしながら、私たちは再び歩き始めた。
しばらく廊下を進んだところで、紬さんがふとこちらを見る。
何か聞きたいことでもあるのかと思ったけれど、すぐには何も言わない。
ただ、少し考えるような顔をしていた。
「そういえば、ことは」
「はい?」
「ことはは、この学校でどこが一番好きなの?」
「私が好きな場所ですか?」
「ええ。案内してもらっているけれど、ことは自身のことも少し知りたいもの」
「私のこと……」
そう言われると、なんだか少し恥ずかしい。
私は歩きながら、校内にある場所をいくつか思い浮かべた。
教室、体育館、中庭、音楽室……その中で一番最初に頭に浮かんだのは、やっぱりあそこだった。
「……図書室、ですかね」
「図書室?」
「はい」
私は小さく頷く。
「落ち着けるので。静かですし、本を読んでると周りのことをあんまり気にしなくていいですから」
「なるほど」
紬さんは納得したように頷いた。
図書室は昼休みでも比較的人が少ないし、放課後ならさらに静かになる。
「ことはは、本が好きなの?」
「好きですね。読むのも好きですし、図書室のあの静かな感じも好きです」
「静かな場所が好きなのね」
「……まあ、そうかもしれません」
別に人と一緒にいる事は嫌いじゃない、むしろ女の子とだったら一緒にいたい。
ただ、本を読んで静かな時間を過ごす。それも私は好きだった。
図書室は、私にとってそういう場所だった。
「じゃあ、恋守も今度行ってみたいわ」
「図書室に?」
「ええ。ことはがそこまで気に入っている場所なら、少し興味があるもの」
紬さんはそう言って、穏やかに笑った。
「……じゃあ、今から行きます?」
「いいの?」
「案内のついでですし」
「それなら、お願いしようかしら」
こうして私は、紬さんを図書室へ案内することになった。
ただ学校の場所を教えるだけだったはずなのに、気づけば少しずつ話すことも増えている。
転校してきたばかりの人とこんなに話すことになるなんて、朝の私はきっと想像もしていなかっただろう。
こうして私は、紬さんを図書室へ案内することになった。
ただ学校の場所を教えるだけだったはずなのに、気づけば少しずつ話すことも増えている。
転校してきたばかりの人とこんなに話すことになるなんて、朝の私はきっと想像もしていなかっただろう。
図書室へ向かう廊下を歩いていると、さっきまで聞こえていた生徒たちの声が少しずつ遠くなっていく。
放課後のこの時間になると、みんな部活や委員会へ向かっているから、普段から静かなこの辺りはいつも以上に人が少ない。
私はこの雰囲気が好きだった。
「ここです」
私は図書室の前で足を止め、扉を指差した。
ガラス越しに中を覗いてみると、何人かの生徒がそれぞれ離れた席に座っている。
ページをめくる音が聞こえるくらいには静かで、いつもの図書室そのものだった。
「思っていたより静かね」
「そうでしょうそうでしょう」
少しだけ得意げになってしまう。
「放課後は特に静かなんです。人も少ないですし、私はよくここで過ごしています」
「本を読んで?」
「はい。あとは、ぼーっとしてたりとか」
「ぼーっと?」
「何も考えずに座ってるんです」
そう答えると、紬さんは少し意外そうな顔をした。
でもすぐに、納得したように頷く。
「それも、良さそうね」
「ですよね」
私は扉を開ける。
中へ入った瞬間、廊下とは空気が変わったように感じた。
本棚が並び、紙と少し古い本の匂いがする。
それだけで、肩に入っていた力が自然と抜けていくような気がした。
「……なるほど」
紬さんも静かに辺りを見回している。
「ことはが好きなのも、少し分かった気がするわ」
「本当ですか?」
「ええ。落ち着くもの」
紬さんはそう言って、本棚へゆっくり近づいていった。
背表紙を眺めながら、時々立ち止まっている。
その姿を見ていると、ここへ連れてきてよかったのかもしれないと思った。
「紬さんは、読みたい本とかあります?」
「そうね……」
紬さんはしばらく本棚を眺めてから、一冊の本に手を伸ばした。
「星の本でも探そうかしら」
「……やっぱり星なんですね」
「好きだもの」
振り返った紬さんが、穏やかに笑う。
私は思わず小さく笑ってしまった。
「じゃあ、星の本がありそうなところも案内しますよ」
「お願いするわ、ことは」
またしても案内することになったけれど、不思議と面倒には感じなかった。
むしろ、静かな図書室を二人で歩く時間が、思っていたより心地よかった。
私が星に関する本が置かれている棚へ向かおうとした、そのときだった。
「……あれ?」
見覚えのある姿が、少し離れたところにあった。
長い水色の髪を背中に流しながら、静かに本を読んでいる。
図書室の落ち着いた空気がよく似合っていて、最初は声をかけるのを少しためらった。
「夜月さん?」
名前を呼ぶと、彼女がゆっくりと顔を上げる。
「あら……白花さん」
夜月さんは本を閉じると、こちらへ小さく会釈した。
そして私の隣にいる紬さんへ視線を移すと、少しだけ目を丸くする。
どうやら、紬さんが一緒にいることには気づいていなかったらしい。
「こんにちは、夜月さん」
「こんにちは、白花さん。……そちらの方は?」
「今日転校してきた恋守紬さんです。先生に頼まれて、私が学校を案内してたんです」
「そうだったんですね」
夜月さんは紬さんへ向き直り、丁寧に頭を下げる。
「夜月と申します。どうぞよろしくお願いします……♪」
「ええ。よろしく、夜月」
紬さんはそう答えると、ほんの少しだけ首を傾げた。何かを思い出したような仕草だったが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「それと、恋守の事は好きに呼んでいいわ」
「好きに、ですか?」
「ええ。苗字でも名前でも、呼びやすいように呼んでちょうだい」
初対面の相手にそう言われると、なんとなく少しだけ距離が近くなったような気がするよね、分かります。
夜月さんは一瞬だけ考えてから、彼女の名前を口にした。
「じゃあ……紬さん、でいいですか?」
「もちろん。それでいいわ」
紬さんは嬉しそうというより、どこか納得したように頷いた。
その隣では、夜月さんも静かに二人のやり取りを見ている。
そして、ふと何かを確かめるように紬さんへ視線を向けた。
「ちなみに、夜月というのは名前? それとも苗字?」
「苗字です」
「そうなのね。では、下のお名前は?」
「初奈です」
「初奈……。素敵な名前ね」
「ありがとうございます」
夜月さんは少し照れたように微笑んだ。
なんだか変な感じだった。
ついさっきまで、私は紬さんを学校へ案内していたはずなのに、いつの間にか名前の話になっている。しかも、図書室という静かな場所で、二人がこうして話しているのを見るのは少し新鮮だった。
紬さんはそんな夜月さんを眺めてから、ふと棚のほうへ目を向けた。
「それで、星の本はどの辺りかしら?」
「あ、そうでした」
私は慌てて目的を思い出す。
危うく案内の途中だということを忘れるところだった。
「星に関する本なら、この辺りにまとまっていると思います。図鑑とか、天体観測の本もありますよ」
私はそう言いながら、棚を指差した。
「ありがとう、ことは」
「いえ。私も少し気になってたので」
そう言って、私は本棚に並んだ背表紙を眺める。
夜月さんはそんな私たちを見てから、手にしていた本を机へ置いた。
「では、私は戻りますね。まだ整理する本が残っていますので」
「あ、はい」
「また何か分からないことがあれば、いつでも声をかけてください。図書室のことなら、私でよければお手伝いします」
「ありがとう、夜月さん」
紬さんがそう答えると、夜月さんは小さく会釈した。
「こちらこそ。よろしくお願いしますね、紬さん」
そう言って、夜月さんはカウンターのほうへ戻っていった。
私はその背中を少しだけ目で追ってから、隣にいる紬さんへ視線を戻す。
「……夜月さんって、図書室が似合いますね」
思わずそんな言葉が口から出た。
「そうね。静かな場所が好きなのかもしれないわ」
「確かに……」
私も頷く。というか、私の知り合いは図書館が似合う人ばかりなんじゃないか?
天瀬さんも本好きだし、夜月さんも図書委員。そして、紬さんも星関連の本を積み上げて寝転びながら呼んでそうな勝手な雰囲気がある。
……いや、最後のは完全に私の想像だけど。
でも、不思議と似合っている気がする。
静かな場所で本を読んでいる姿が、妙にしっくりくるというか。こういう人たちは、図書室にいるだけでその場の空気に馴染んでしまうのかもしれない。
図書室は、やっぱり落ち着く。
放課後の教室とは違って人の声も少なくて、本のページをめくる音や、遠くから聞こえる運動部の声だけが静かに響いている。
私はこの空気が好きだった。
だからこそ、こうして紬さんを案内しながら図書室に来られたことも、少しだけ嬉しく思えた。
しばらくの間、私たちはそれぞれ気になった本を探していた。
紬さんは星に関する本を、私はなんとなく目についた小説を眺めながら、ゆっくりと棚の間を歩いていく。放課後ということもあって、図書室にいる生徒はほとんどいなかった。
「……あった」
紬さんが小さく声を漏らした。
見ると、棚の上段から一冊の本を取り出している。表紙には星空の写真が大きく載っていて、タイトルにも天体に関する言葉が入っていた。
「それ、探してた本ですか?」
「ええ。調べていて、前から少し気になっていたの」
紬さんは本を両手で持ちながら、表紙をじっと眺める。
その横顔は、普段より少しだけ楽しそうに見えた。
「星、本当に好きなんですね」
「好きよ」
返事が早かった。
「そんなに即答するんだ……」
「好きなものを好きと言うのに、迷う必要はないでしょう?」
紬さんは本を胸元に抱えたまま、窓の外へ視線を向ける。
まだ空は明るく、夕方の薄い光が校舎の向こうへゆっくり沈み始めていた。
「今日は星、見えるかしら」
「まだ明るいですけど、夜になったらどうでしょうね」
「晴れていればいいのだけれど」
そう言って、紬さんは少しだけ笑った。
その言葉を聞いていると、やっぱりこの人は星を見るのが好きなんだなと思う。
ただ本を読むのが好きというだけじゃない。星そのものを眺めたり、考えたりする時間まで含めて好きなのだろう。
「……そういえば」
紬さんが、ふとこちらを見る。
「ことはは、星は好き?」
「私ですか?」
「ええ」
突然聞かれて、私は少し考えた。
「嫌いではないですけど……詳しくはないですね。星座とかも、あんまり分からないですし」
「それでも、夜空を見ることはあるでしょう?」
「まあ……たまに」
「それなら十分よ」
紬さんはそう言って、本を一冊だけ抱え直した。
「知らなくても、綺麗だと思えれば、それでいいもの」
すると紬さんは少し考えるように目を細めてから、穏やかに笑った。
「じゃあ、いつか一緒に星を見ましょうか」
「え?」
「学校が終わったあとでも、休日でも。星を見るだけなら、難しいことではないでしょう?」
「……そうですね。でも、都会の空で見えるでしょうか……」
私がそう言うと、紬さんは少しだけ考えるように黙り込んだ。
そして、何かを思いついたように、ふっと表情を緩める。
「……なら、どこかへ見に行きましょ」
「どこかへ?」
「ええ。街の明かりが少ないところへ行けば、今よりずっと綺麗に見えるはずよ」
そう言われると、なんだか少しだけ楽しそうに思えてくる。
普段なら、星を見るためだけにどこかへ行こうなんて考えたこともなかった。
「……面白そうです……!」
「でしょう?」
紬さんは満足そうに頷いた。
「せっかくなら、ちゃんと星が見える場所で見たいもの」
「じゃあ……いつか、本当に行きましょうか」
「ええ。いつかね」
その「いつか」が、思っていたよりもずっと楽しみに感じられた。




