第15話:元婚約者の後悔と、差し伸べた拳
帝国軍の殿が解き放ったのは、魔界の獣『ガルム』だった。
三つの頭を持ち、魔法耐性を備えたその巨躯が、逃げ遅れた王国騎士たちを蹂躙していく。
「嫌……来ないで! 誰か、誰か助けて……!」
その牙の先にいたのは、エレン・フォン・ローゼンバーグだった。
かつて高飛車に魔法の優位を説き、カイトを「無能」と切り捨てた公爵令嬢。今の彼女に、その面影はない。杖は折れ、自慢の赤髪は泥に汚れ、恐怖に顔を歪ませて腰を抜かしていた。
ガルムの巨大な爪が、エレンの細い体を切り裂こうと振り下ろされる。
彼女は反射的に目を閉じた。
――ゴォォォォォンッ!!!
肉が裂ける音ではない。
巨大な釣鐘を叩きつけたような、重厚な衝撃音が戦場に響き渡った。
「……目を開けろ。みっともないぞ、エレン」
聞き慣れた、しかし以前よりも遥かに深く、静かな声。
エレンがおそるおそる目を開けると、そこには、ガルムの巨大な爪を「左手の掌」だけで受け止めているカイトの背中があった。
「カ……イト……?」
「下がっていろ。こいつの殺気は、お前には毒だ」
カイトは一歩も退かない。
ガルムが三つの口から同時に高熱の火炎を吐き出す。だが、カイトは動じない。
「――『息吹』」
カイトが深く、独特な呼吸を吐き出す。
その瞬間、彼の周囲に目に見えぬ「気の壁」が展開され、業火を左右へと割り振った。熱風すら、カイトの道着の裾を揺らすことすらできない。
「グルァァッ!?」
獲物が燃えないことに困惑した獣に向け、カイトが右の拳を深く引き絞った。
「魔法の才能がないからと、お前は俺を捨てたな。……だが、俺は感謝している。おかげで、この一撃を磨く時間が増えた」
カイトの右拳が、黄金のオーラを纏って膨張する。
それは魔力ではない。執念と、数万回の鍛錬が結晶化した純粋な『意思』だ。
「――『正拳・震天』」
ドォォォォォンッ!!!
放たれた突きは、ガルムの胴体を貫通し、背後の大気を真っ二つに引き裂いた。
三つ首の巨獣は、悲鳴を上げることさえ許されず、内側から細胞レベルで粉砕され、霧となって消散した。
静寂が戻る。
カイトはゆっくりと拳を引き、残心をとった。
「……あ……ああ……」
エレンは、その圧倒的な強さを前にして、涙が止まらなかった。
自分が「ゴミ」だと切り捨てた男は、自分が一生かかっても届かない高みへ、たった一人の足で登り詰めていた。
後悔。恥辱。そして、自分の愚かさ。
「カイト……私、私は……」
彼女が謝罪の言葉を口にしようとした時、カイトがそっと右手を差し出した。
泥に汚れた彼女の手を取るための、武骨で、固いタコに覆われた拳。
「過去はどうでもいい。立て、エレン。自分の足で立つのが、空手の基本だ」
その言葉に、エレンは震えながらも彼の手を握った。
カイトの瞳には、かつての恨みも、今の優越感もなかった。ただ、極致を目指す修行者の、澄み渡った静謐さがあるだけだった。
しかし、その光景を遠くから見つめる黒い影があった。
帝国の真の黒幕。魔法を否定し、肉体をも捨てようとする異形の存在――『邪神の代行者』が、カイトというイレギュラーを排除せんと動き出していた。




