40話 迷羊③
大迷宮・ヴァレリア。
大陸の最奥にあると言われているその迷宮は、冒険者にとっての夢の果てだった。
かつての勇者が、英雄が、大国が、迷宮攻略に乗り出した逸話は、子供のころに何度もせびった。
最果てのさらに果て、星が終わるその狭間。
そこに、大迷宮の入り口があるという。
たどり着くことすらできない、幻の迷宮。
曰く、その迷宮の魔物はどれも嘘のようにおどろおどろしく、獰猛で、出会えば生きては帰れない。
曰く、その迷宮には、海を埋め尽くすほどの財宝が眠っている。
曰く、迷宮に挑む者は皆、心に勇者を宿した強きものたちである、と。
出典
ラグナ王国伝第三巻 5167年刊行 編・王国図書館 より
――――
「……ひっ、ふ、ぅぅ…っあ、っひ……ふぅ……」
乱れた呼吸音が迷宮に木霊する。
そこには恐怖に負けた弱者が一人、固く身を守るように蹲って震えていた。
誰が見ても憐れみ、同情するような、惨めな男。
そこらに空き缶でも置いておけば、道行く人からコインが投げ込まれるに違いない。
ロンドンの浮浪者が同情してしまいそうなほど、ドイツの女がパンを投げ渡してしまいそうなほどに、男には悲惨という言葉がとてもよく似合っていた。
むせび続ける男を挟み込むように、二つの黒い影が忍び寄っていた。
影が揺れ動くたび、荒い鼻息が鳴る。
時折鳴らすカチカチという固い爪の音が、時計の針のように刻々と迷宮の奥に吸い込まれていった。
二匹の獣は何度も確認するように周囲をぐるぐると回り、ゆっくりと男に近づいた。
「ガウゥァ!」
そして姿勢を低く、決して油断することなく、二匹は飛び掛かった。
ハイエナの狩りのように、弱った相手を確実に仕留める。
いつも通りの安全な狩り。
二匹はそう信じて疑わなかっただろう。
だがそれは、二匹にとって最後の思考になった。
「……うるせぇんだよ犬っころ!!!」
男の叫び声とともに迷宮内が急激に熱を帯びる。
壁に灯った蝋燭はその熱に耐え切れず、一瞬のうちに溶け切れる。
二匹の哀れな獣は業火に飲まれ、煤すらも残すことなく焼き尽くされた。
「は……はは……ははははは!!!あっはははははは!!!!」
狂気じみた笑い声が迷宮に木霊する。
不気味な笑いを浮かべたその表情は、もはや人というよりも悪魔のそれに近かった。
殻に閉じこもるように、蹲ったまま笑い続ける。
焦点の合わない目に涙を浮かべながら、口は三日月のように不気味に裂けていた。
「全部、ぶっ壊してやる」
俺は、ぼそりとつぶやいた。
口に出せば簡単な答えだった。
ぶっ壊す。
幻影も、迷宮も、何もかも。
さぁ、耐えられるものなら耐えてみればいい。
俺はやりたいようにやるだけだ。
放ったマナが暴風のように吹き荒れる。
壁が耐え切れず、ぎしぎしと嫌な悲鳴をあげていた。
「あぁそうだ、全部ぶっ壊せばいい。そうだろ!ルーリャ!ルーリャ・ヴァレンシュタイン!」
ゆらりと起き上がる。
「お前の小細工も何もかも、全部、ぶっ壊してやる!」
そういって、強烈に一歩踏み出した。
その衝撃で地面が砕かれ、空間そのものにヒビが入りそうなほど強く、過激に。
そして視界が暗転する。
あの笑い声とともに。
「まってろクソガキ。全部全部何もかも、ぶっ壊してやる」
―――――
父さんと母さんが並んで座っていた。
ひどく神妙な面持ちで、一枚の書類を挟んで俺と向きあっていた。
「葵、もういい加減に決めなさい」
ぴしゃりと父さんの叱声が飛んだ。
「うるせぇ……」
こんな幻影に惑わされるのはもう終わりだ。
壊し尽くしてやる……。
まずはお前らからだ。
「なんだって?はっきり言いなさい。もう時間がないんだぞ。わかってるのか」
父さんの怒声がヒートアップしていく。
あぁ、本当にうるさくて仕方がない。
「うるっせえって言ったんだ!黙れ!黙れ黙れ黙れ!うるせえんだよ!!!!!!!!」
俺は声を荒らげ、机に拳を叩きつけた。
忌々しい幻影に付き合うのもこれまでだ。
全て焼け焦げてしまえばいい。
俺は怒りをぶつけるように、魔法を発動しようとした。
その時。
パチンッ!と、乾いた音が響いた。
「どうしてかなぁ……っ……どうしてこうなっちゃったのかなぁ……ごめんね……葵……ごめん……ごめんね……っ……」
母さんが、泣いていた。
泣いて、謝っていた。
父さんは何か言いかけたが、口をつぐみ腕を組んで黙り込んだ。
俺は呆気にとられて、魔法も怒りも、完全に霧散してしまった。
偽物のはずなのに、憎くて、忌々しくて仕方がなかったはずなのに。
そんな気は、どうしたって起きなかった。
頬が熱い。
熱いのに、痛くない。
痛くないのに、とても痛い。
ごめん?
なんで?
なんで、母さんが謝っているんだ?
違う。
それは、違う。
そうだ。
何故、今までずっと忘れていたんだろう。
何故、真っ先に口に出せなかったのだろう。
こんな幻想、いつまでも続くはずがないのに。
安心していた。
甘えていた。
母さんがあまりに当たり前にそこにいたから。
だから、すっかり忘れてしまっていた。
謝らなきゃいけないのは、俺だったのに――。




