39話 迷羊②
「おえっ……はっ、あぁ……」
ビチャビチャという不快な音を鳴らしながら、胃液が床を汚した。
自分の嗚咽する音で、意識が覚醒する。
辺りを見回すと、ひどく殺風景な冷たい石壁の通路が続いている。
どうやら、迷宮に戻ったらしい。
「なんだ、いまの……」
まるで昨日のことのように、鮮明な光景が脳にこびりつく。
忘れていた記憶が強制的に引きずり出されるような不快感に、思わず目眩がした。
「あ」
足が縺れて、思わず一歩前に踏み出した。
その瞬間、あの笑い声が響き渡る。
そして俺はまた、意識を手放した。
―――――
「うわっ……」
突然の冷気にあてられて身体が震えた。
ちょうど冷蔵庫を物色していたところだったらしく、俺は晩御飯の残り物だろう唐揚げの皿に手を伸ばしていた。
暗いキッチンを冷蔵庫の庫内灯がぼんやりと照らし出している。
申し訳程度に添えられたレタスがポロリと零れ落ちた。
……かゆい、気持ち悪い、痛い。
幾日か風呂に入っていないのか、体中のあちこちが不快感にさらされている。
「こら葵!あんたまた夜中に起きて!生活習慣はきちんとしなさいっていつも言ってるでしょう!」
その時、母さんの金切り声がキッチンに響き渡った。
寝起きなことがよくわかる。
目は半開きだし、髪も乱れていた。
「こっちだって眠いのよ!夜中起きてうるさくされると迷惑なの!」
とにかく、はやく寝なさいよ。
母さんはそういって不機嫌そうに踵を返した。
……うるさいな。黙ってくれよ。
その瞬間、心の奥底でドロッとしたどす黒い感情が湧き出した。
母さんに対して腹を立てたわけでもないし、母さんが間違ったことを言ったわけじゃない。
本当に急に、ただ何となく、イラっとしたのかもしれない。
わからない。
だがとにかく、この感情をぶちまけたかった。
そうしなければ、自分がおかしくなってしまうような気がした。
「うるっせぇなぁ!!!黙れよババア!!!俺が何しようと俺の勝手だろうが!!!眠いならとっとと寝てやがれよ!!!」
気が付いた時には、俺は叫んでいた。
口汚く、下劣に、自分勝手な暴言を吐き連ねた。
そうやって怒鳴り散らかすと、気分がスッとした。
そうだ。俺は悪くない。向こうが寝れなかろうが、それは親自身の問題だ。俺のせいにするんじゃねぇ。
……俺は間違ってないのに、なんでお前はそんな顔をするんだ。
やめろよ。こっちを見るな。そんな目で、俺を見るな。
「……気悪い。どけババア」
どすどすと音をたてて部屋に戻ると、部屋の扉を乱暴に閉める。
ちらりと見えた母さんの顔は、悲しいような申し訳ないような、苦々しい表情を浮かべていた。
「くそが!!!っんなんだよ!!!」
俺は投げつけるように皿を机に置いた。
腸が煮えくり返るような、どす黒い感情がとぐろを巻く。
頭の中の冷静な部分が、お前が悪いと責め立てる。
それすらも不快で、俺は拳を机に叩きつけた。
衝撃でグラスが倒れ、唐揚げが水に浸った。
苛立ちに任せて濡れた唐揚げを貪り食う。
水を吸った衣の食感は、ひどく気持ちが悪かった。
―――――
ひんやりとした重苦しい空気が頬を撫でた。
目を開ける。
迷宮に戻ったようだ。
助かった……。
そんな言葉が頭の片隅に浮かびあがり、俺は崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
頬を冷たい雫が伝うのを感じる。
もう進むのは無理だ。
これ以上は、俺の心が壊れてしまう。
そんな予感が、防衛本能が、最大限のアラートを鳴らしていた。
過去のトラウマ、後悔、記憶…。
それは簡単に克服できるようなものじゃない。
アメリカ兵がPTSDに苦しむように、虐待を受けた子が悪夢にうなされるように……それは人を簡単に壊してしまう。
どんな悪党も、悪魔も、神ですらも、その苦しみには抗えない。
医学の進んだ地球にいる人たちですら、その後遺症に苦しみ続けている。
苦しい。辛い。嫌だ。投げ出してしまいたい。
無数の弱音が、涙とともに零れ落ちた。
……それでも俺には、やることがある。
そういってトラスのことを、クルトのことを思い出して自分を奮い立たせる。
俺が行かないと、やらないと、二人は……
理性で恐怖を押さえつけ、涙を拭って立ち上がった。……が、俺はその場から一歩も動くことなく、再び頽れた。
足が震える。
その震えが、瞬く間に全身に伝播する。
歯がぶつかり合い、がちがちと嫌な音を鳴らす。
「もう諦めるおつもりですか。威勢のわりにあっけないですね。」
そんな嫌味ったらしいルーリャの声が、頭に響く。
俺はそれに反抗することすらできず、ひたすら縮こまって震えていることしかできなかった。
「やれやれ、どこまでみっともない姿を晒せば気が済むのですか。本当に惨めですね」
「よくそれで希望などと宣えたものです」
「ほら、はやく次に行けばいいではないですか。私に勝てると判断したのでしょう?」
続けざまにルーリャの罵倒が浴びせられる。
俺は耳を塞いで蹲った。
服を頭までたくし上げ、耳に押し当てる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
俺は逃げるようにその言葉を繰り返す。
ルーリャの罵倒も俺の声でかき消えてしまうほど、何度も何度も、ただひたすらに繰り返した。
「……気色悪い。惨めな人間。そうやっていつまでも壊れたふりをしていれば、誰かが助けてくれるとでもお思いですか……浅ましい」
ルーリャはそれだけ言い残し、また声は聞こえなくなった。




