95.婚約破棄②
「これは貴女のお父様……ブリアック公が、去年の夏に交わされた婚約の義に際して王政府に届け出たディルクの帰化に関する書類の一部です」
「はあ……」
アウローテでは、外国籍の者が婿養子に入る場合、身分や立場に拘わらず等しく帰化することが義務付けられている。その際、身元確認のため本国での戸籍謄本かそれに準ずるものを申請書に添付して役所へ上げることとなっているが、ディルクは国立貴族学院への編入があったため、通常婚姻時に請求されるこれらの資料を入学に合わせて提出していた。
「何か、書類に不備でも?」
「ええ。これが、偽造されたものと分かったのです」
「偽造?!」
まさか、という思いで目を瞠る。
険しい表情でレイラは続けた。
「調べてみたところ、このウェーバー商会というのは元々隣国に於いてもしがない線維商でしかなかったとか。それが彼……ディルクに代替わりしてから、大きく財を成したことはご存じでして?」
「はぁ……ざっくりとですが、婚約前に父から聞かされました。なので詳しいことまでは存じておりませんが、確か彼が何らかの新しい事業を起こし、それで家が大きくなったと」
「なるほど……では、その新規事業というのが貸金業であることはご存じなかったのですね」
「えっ……」
ラシェルの反応に、レイラがやはり白だったかという思いを深めた表情で、さらに話を進める。
「独自の厳しい審査基準を設けて回収率百パーセントを謳い文句に出資者まで募り、今や本業を凌ぐ両替商になっているとの話ですが……ウェーバー商会が飛ぶ鳥を落とす勢いで成長すると同時に、地元では妙な噂が実しやかに囁かれるようになったそうです」
「妙な噂?」
コクン、とレイラは頷く。
ウェーバー商会では小額からの貸付にも応じ、大店から貴族、はてまた庶民の主婦から奉公人まで幅広く顧客にしているらしい。回収率百パーセントというのも伊達でなく、同業他社に比べて契約する際の審査が厳しいのは先にも述べた通りだが、ただ一つ、子持ちの顧客には比較的貸し渋りが甘いようだといった噂があるらしい。
レオノキアでは戦後、奴隷商が無秩序に罷り通っていた時期を経て現在、人身売買は極刑となっている。それに伴い売春業の取り締まりも厳しくなったことから、身柄を担保に金を貸すといった商いは少なくとも表社会において鳴りを潜めているものの、ここ数年、隣国に於ける若者の失踪や神隠しといった事件が急増しているらしい。それがちょうど、ウェーバー商会の隆盛とタイミングを同じくすると言う。
さらには前世の上海都市伝説よろしく、旅行先で行方不明者とよく似た顔の娼婦に出逢ったとかいう、ちょっと笑えない話も混じっているのだとか。
「……父が、国内での借金だけでは足りず、ディルクからもお金を融通してもらっていたという事でしょうか」
レイラの話を聞き、ラシェルは身の毛が弥立つ思いがした。
過去、ディルクに凄まれた時の言葉を思い出す。
あれは単なる脅しでも、言葉の綾でもなかったということか。
「そこまでは分かり兼ねますが……一度、レオノキアへ直接行かれたことがありますよね、お父様は」
渡航歴も調査済みということか、とレイラの言葉から推し量る。
しかしラシェルはそこで大きく息を吐いて、彼女に聞き返してみた。
「失礼ですが、レイラ様はどういった権限で、このようなことをお調べになられたのでしょう」
公爵令嬢とはいえ、役人でもないのにプライベートに土足で入り込み過ぎだと感じたのだ。
内容が内容だけに、ラシェルは腹を据え、射貫くように彼女を見つめる。
その、ラシェルの瞳から剣呑さを汲み取ったレイラは、たじろいだ表情で慌てて返した。
「貴女の言いたいことも分かりますけど、話は最後まで聞いて頂戴。ここからが、重要なの」
巷ではこれらの失踪事件にウェーバー商会が何らかの形で関与しているのは明らかと見ている者が大半のようだが、にも拘らず未だこの噂が都市伝説の域を出ないのには二つ理由があると言う。
一つは、身元引き受け先である家族や保護者からの捜索願及び失踪届が出ていないため、公の手が入っていないこと。
そしてもう一つは、もっと深い裏の事情があるのではないかということ。
「裏の事情……?」
「そう。ウェーバー商会は、レオノキアで近年力をつけ始めた新興マフィアのフロント企業である可能性が高い、ということよ」
「マフィア……?」
思いがけない単語がレイラの口から出たことに、ラシェルは驚きを隠せない。
「マフィアが裏で手を回しているなら、人身売買の取引だって容易なはず。そもそも、商会が市場で出資者を募ったのは、ある程度事業が軌道に乗ってからの話なの。となると、多額の貸付に必要な初期費用を、吹けば飛ぶような零細商家がさてどこから集めて来たのか……」
「それが、マフィアからだったと……?」
ラシェルを真っ直ぐに見据えたまま、レイラは静かに頷く。
「うまく隠されていたけれど、戸籍を辿る限りディルクは多分、レオノキア人ですらないわ。あまりに綺麗すぎて通常の官吏では見落とされていたものの、出生届の部分で微妙に時系列と異なる記載が確認されましたの。何処から流れ着いたか知らないけれど、彼の幼少期の身元に関する本物の資料は何処を探しても存在しなかったわ。けど、これを切欠に詳しく調べた結果、彼は五歳で奴隷商人からこのマフィアに買われたことが分かったの。以来、ずっと傭兵として戦地を転々としてきたそうだけれど、その功績が認められて今回、ウェーバー商会という倒産寸前だった商家に婿養子として入り、実権を握ってフロント企業の立ち上げを手掛け、見事フィリドールというアウローテの弱点を突き入国して来たネズミ……レオノキア政府のスパイだったというわけ」
公文書偽造。
奴隷。
傭兵。
マフィアのフロント企業。
ネズミ……他国政府のスパイ。
レイラの言葉が、ぐるぐると頭の中を巡る。
確かに、ディルクが孤児で、ニーナの父親に拾われた話は前に彼女から聞いて知っていた。
ちょっと待って。ということは、ひょっとするとニーナは……。
「ここで一番厄介なのが、先も話したマフィア……バーベリ商会の存在よ」
ひくんっ、と肩を震わせ、ラシェルは固唾を呑んだ。
やっぱり、と思う。
けど、だからといってあの真面目堅物で、如何にもザ・文官タイプなディルクが傭兵として戦地に赴いていたり、身分証の偽造に手を染めていただなんて正直、信じられない。百歩譲ってそうだったとしても、政府のスパイというのはまた話が飛躍し過ぎてはいないかとラシェルは疑った。
こんなドラマティックでスペクタクルな展開、どう考えてもアニメか映画の見過ぎだろう。アウローテにテレビも映写機もないけど。
「何か、思い当たる節でもあったかしら」
「…………」
顔を蒼褪めさせて沈んでいくラシェルの表情を読んで、レイラが訊く。
しかし返事がないことに肯定の意思を感じ、目を瞑ってレイラは細く息を吐いた。
「新興と言ったのは、最近力を付けて知名度が上がったから周りにそう称されているだけで、地元では昔から名の知れた、吹き溜まりの集団だったようよ。二十年ほど前に代替わりした頭領の男が一風変わった人柄らしくて、若い頃はそれこそ遠征した先々で子供を誘拐し、その子と一緒に近隣の村を襲撃して金品を奪い、小銭を稼いでいたそうなの。その後もスラムで屯している身寄りのない子供達を拾っては手懐けて武器の扱いを仕込んだりと、とにかく変わり者で無茶苦茶だったって噂よ。けど数年して、統率の取れた少年兵を戦地に送り込むビジネスを始めた途端、周りの評価は一変した。それはそうよね、対戦相手としては、戦場に突然子供が現れたら、驚きと油断が生まれるのは当然よ。さらに訓練を積んで洗脳された子達の動きは完璧で、最強と称されていたわ。隣国に於ける少年兵の礎と需要を生み出したのは彼らの功績と裏では有名らしいけど、食えない男で、請け負う仕事は敵味方関係なく現金主義の節操なし。現場で同じバーベリの少年兵同士が殺し合いをした戦場もあったそうよ。けどバーベリが政府諜報機関の下部組織だとすれば、無秩序に見えた彼らの仕事にも一貫性が出てくるわ。上層部は常に両建てを狙っているもの。だからこそ裏付けに時間がかかったのだけど、貴女の……フィリドールに注ぎ込まれている巨額の資金投入を考えたら、反政府組織や商人風情で賄うには少々荷が勝ち過ぎている額だということも判明して……というか、国家レベルでないと有り得ない額だったというわけ」
「……」
「貴女は直接関わってないだろうから知らないとは思うけど、王都にあるあの屋敷が売り出されていた際の市場価格や、政府に提出されている資産表から割り出した貴女の家の借金を合わせただけでも、アウローテの国家予算の半分は下らない額が既にウェーバー商会からフィリドールに投入されている計算になるのよ? この、僅か一年ほどの間で」
確かに、それは一企業や組織が用立てられる額ではないなと冷や汗が滲む。涼しい顔して父もディルクも気前よく出すものだから、まさかそこまでの額だとは思いもしなかった。
「となれば、偽造された出生届が綺麗すぎることにも納得がいくわ。国の中枢が関わっていなければ、この判は押せないもの」
ディルクの出生届に目を落としながら、ふっと微かにラシェルは口角を上げる。
それは間違いなく、彼の歩んできた歴史だと思ったから。
「ディルクは……レオノキア政府はそうまでしてアウローテに侵入して、何を企んでいるのでしょう。そしてお父様は……何か罪に問われるのでしょうか」
「レオノキアは今、内政が混迷を極めているの。反政府組織が各地でテロを起こし、それがさらなるテロリストを生む悪循環に陥ってるわ。そして政府がテロ対策として取ろうとしているのが、国威発揚。積年の恨みを果たすため、アウローテとの交戦を望んでいます。前大戦の雪辱を果たすと謳って」
話が一気にきな臭くなってきた。
「そしてブリアック公ですが……現段階で彼が何処までこの件に関与しているか、王政府は掴んでいません。だから今ここにラシェルさん、貴女を呼んだの」
「え……」
「今なら、貴女の御父上も含めて騙されただけということで、罪に問われることはありません。一刻も早くディルクと絶縁して、彼を王政府に罪人として差し出してほしいのです」
「そ……」
そんな、と口にしていいのか、迷ってしまった。
「貴方とこんな風に気安く会い、互いに話をするようになってまだ間がありませんが、私は然るお方から貴女の事をこれまでたくさん話に聞いて、ずっと友人になりたいと思っていました。だから、貴女の力になりたいのです。これからもずっと、仲良くしたいのです」
けれどこのままだと確実に、御父上も国家反逆罪に問われ投獄されるでしょう、とレイラは目を伏せて小さく零した。
当主が国に背いたとなれば当然、家は取り潰し。母も、自分も、使用人たちまでも路頭に迷い、死より厳しい現実が待ち受けているだろう。
かといって、ディルクと別れるのも絶対に嫌だ。
ラシェルは厳しい判断を迫られた。
彼は婚約者で、将来自分の夫となる人で、心から愛している人。その彼が間諜罪で囚われれば、その罪の重さから考えて確実に命はない。
ことの重大さに、吐き気がした。
知らない。
こんなの、ゲームのシナリオにはなかった。
混乱する。
何かもっと、お花畑みたいな、男女の恋愛だけしてる、綺麗なお話じゃなかったっけ、天虹って。
ううん、そうだ。
そもそもゲームの時間軸では、まだ物語の幕すら上がってないじゃないか。
オープニングが始まる前に、舞台から退場? どうしてリサは、こんなにも早く編入して来たの?
謎は深まるばかりだった。
どうしようもない八方塞の事態に、胃がこれでもかと言うくらいキリキリと痛み出す。叶うなら、今すぐにでも逃げ出したかった。
「お茶、出来たよ~」
ラシェルとレイラの間に流れる深刻なムードなど一切お構いなしといった調子で、いつも通り気の抜けた軽い口調のアンリが給湯室から紅茶を運んで戻って来る。
かなり声を潜めて遣り取りしていたため、給湯室の方まで聞こえてはいなかったのだろう。
とはいえこんな時に、呑気にお茶なんか啜っている場合じゃないと、やや八つ当たり気味にラシェルが視線を鋭くしてアンリの方へ振り向いたその時、彼の背後にキラリと光る物が目に入った。
次の瞬間、カチリと音がする。
何かタイマーセットしていた物の仕掛けが外れたような、小さいけれど硬質な音。
「ラシェルちゃん、レイラ、伏せて……!!!」
咄嗟にアンリが持っていたトレイを横に投げ捨て、二人めがけて飛び掛かるように、自分の腕の中へとかき抱く。
閃光と、轟音と、爆風。
それ以外の記憶はない。




