86.夢と飛行船
翌週の昼休み、ディルクに日課の勉強を食堂で教えてもらった後、二人並んで教室までの道を帰る。
ラシェルはこの一時も、お気に入りだった。
午後の授業が始まる前にリラックスしたいからと、人気のない渡り廊下を選んでもらい、気分転換に少し遠回りして歩く。
ディルクへの気持ちを自覚してからというもの、リサの存在は気になるけれど今のところ二人に接点もないようだし、だったら来るべき時に備えて少しでも彼との仲を深めておきたいという計算もあった。
歩きながら上目遣いに彼を盗み見れば、日に日にラシェルの理想へと近付いていく容姿が眩しくてドキドキする。
声をかけられただけで最近は、その穏やかでお腹の奥に響くような低音にときめきを覚えていた。
ふふ、と小さく微笑んで、照れ隠しにラシェルはそのまま青い空へ視線を移す。
雲一つ無い快晴に、心も透き通るようだった。
「いい天気だな」
いつの間にかディルクも空を仰ぎ見ていたようで、陽光に目を細めて言う。
溜め息のように、ラシェルも「そうね」と頷いた。
「こんな日は勉強なんか忘れて、いっそ飛行船の旅にでも出たい気分よ」
ふと、前世見たSFかアニメか何かで、新婚旅行に飛行船から手を振っていたカップルの姿を思い出して零す。
目前まで迫ったリサという存在からの、ただの現実逃避かもしれないけれど、いつか彼と飛行船で世界一周したいなんて夢物語を一瞬、夢想してしまった。
「飛行船?」
驚いたような、けれど真面目なトーンでディルクが聞き返す。
アウローテでは見たこと無いものの、外国では気球くらい存在していそうな気がしたので驚かれるとは思ってなかった。新大陸への渡航手段が船であることから飛行機はまだ無さそうだと判断し、敢えて飛行船と言ったのだけれど。
「うん、空飛ぶ大きな船。レオノキアとか、カイルラスにはあるんじゃないかなって思って」
「一応、あるにはあるが……どうしてそれを?」
閉鎖的なアウローテでは、その言葉すら輸入されていないはずだと訝る。
やっぱりそうなんだ、と心の中で舌を出しつつ、
「だって、小さい頃から夢だったの。乗り物に、いっぱい風船を付けたら空も飛べるんじゃないかって」
前世のことは話さず、幼い頃、本当に夢見た光景を口にして、はぐらかした。
「鳥のように空を渡ることができれば、山も川も海も、国境だって関係ないでしょう? 自由に空を飛べたら、世界一周も夢じゃないわ」
瞳を閉じ、憧れを語るも「現実的には、そんな簡単なものじゃないがな」と苦笑される。
まぁ、確かに領空権の問題とか諸々あるだろうし、実際のところ難しいとは思うけど。上手く誤魔化せたようでホッとした。
「ところでディルクは飛行船、乗ったことあるの?」
「いや。レオノキアでは先の大戦で技術者が流出したこともあって、輸入モノが数隻あるだけだから」
「ひょっとして、その流入先がカイルラスだったり?」
「御名答。殆どが新大陸のカイルラスへ移住し、豊富な資源を使って、今や飛行船と言えば右に出る国はない程にまでなってるよ」
「すごい! ということは、戦後数十年で急激な発展を遂げたってことよね」
「ああ。特にここ十年程の成長ぶりは目を見張るものがある。知の流出は国家にとって致命的だったと、今になってレオノキアの民は嘆いているよ」
言って、ディルクは自嘲気味に肩を竦める。
「カイルラス国内の移動は、列車から飛行船が主流になりつつあるようだしな」
「わぁ、いいなぁ」
お伽噺に出てくるような乗り物に胸をときめかせるラシェルを見て、「そうか?」とディルクが聞く。
「それは、そうよ。アウローテも飛行船があれば王都へだって一飛びだろうし、お母様の生家にも頻繁に帰省ができるわ」
「……乗ってみたいか?」
もちろん、と返す。
もっと言えば、ディルクと新婚旅行でカイルラスへ行き、一緒に飛行船に乗ってみたい……とまでは流石に口に出来ず、俯き、赤く火照る顔を隠した。ディルクとのことになると、つい暴走してしまい気味な最近の癖を自省する。
その隣で、何か思い付いたのか俯き、ディルクも考え込む仕草で手を顎に当てた。幾つか小さく独り言を零し、そうだなと深く頷く。
「いいかもな、……それ」
「でしょでしょ! 絶対、素敵だと思うの」
「ああ。いつか乗せてやるよ、ラシェル」
「うん。楽しみにしてるね」
晴れやかに微笑んで言うディルクに、まるで自分の想いが通じたかのような気持ちになって、ラシェルも顔が綻ぶ。嬉しくて、いつかの日のように、また手を繋ぎたいと腕を伸ばしかけたその時、不意に後ろから声を掛けられた。
「ごきげんよう、ラシェル様」
「リサ様……?!」
こんなところで鉢合わせるとは思わず、つい驚きの声を上げてしまう。
慌てて居ずまいを糺し、ラシェルも一礼して挨拶を交わした。
「ラシェル様は毎日、食堂で勉強をされてるとクロードから聞きしましたが、その帰りですか?」
「はい……」
「仲がよろしいことで、羨ましいですわ」
ラシェルとディルクを見て、リサが微笑む。
その様子に、どことなく白々しさを感じながらも「リサ様は?」と一応、社交辞令で訊いた。
「ふふ。実は、ディルクに聞きたいことがありまして、探しておりましたの。見つかって良かったですわ」
突然、地雷と銃撃に遭ったような衝撃を受ける。
聞きたいこと? 一体、どんな?
何より、どうしてリサは親しげに彼の名を呼び捨てにしているのか。
ショックと混乱で息が止まりそうになるのをどうにか堪え、ラシェルはディルクを顧みる。
「リサ、前にも言ったが、こんなところでその話は……」
「あら、こんな所でなければ、よろしいんですか?」
「そういうことでは……」
互いに目配せしながらの、言外に何をか謂わん。
意味深な遣り取りに、ラシェルは目眩すら覚えた。
そしてディルクもまた、気安く彼女をリサと呼んでいることに唖然とする。
先までラシェルが感じていたディルクとの幸福な遣り取りなど、一瞬にして吹き飛んだ。
「分かってるわ。けどイエスかノー、それだけのことですもの。早く聞きたくて」
「……」
大輪の花を咲かせたような笑顔でこちらを見つめるリサに、いつもはすぐにでも白黒つけたがるディルクが、珍しく言葉を詰まらせる。
戸惑いの表情を浮かべて押し黙るディルクに、リサが溜め息を一つ吐いて「まあ、いいわ」と呟いた。「もう少し、時間をあげる」
「リサ……」
縋るような目で、ディルクがリサを見つめる。
その、二人の距離感に、ラシェルは血の気が引く思いがした。
彼女は見境なく攻略対象者に手を出しているのではないかと戦く。
ローレンスをあっという間に籠絡したかと思えば、クロードを手玉に取り、アルフレッドとは幼馴染み、ユーグとも距離が近かった。
そして今は、ラシェルの婚約者である隠しキャラのディルクに迫っている。
天虹にハーレムエンドはなかったはずだが、攻略本を持ってない自分が知らないだけで、そんなルートが実際には存在したのかもしれない。
そんなことを考え、俯いていたら急にラシェルの手を取りリサが明るく言った。
「それより私達三人、もっと仲良くなった方が良いと思うんです」
ラシェル様もそう思いませんかと、リサが微笑みかける。
「えっ……」
急にお鉢を向けられ、ラシェルは驚き顔を上げた。
「前にも言いましたが、私ずっと、ラシェル様とお友達になりたかったので」
それは覚えている。
だが生徒会室で自己紹介した直後、フェードアウトしたのはリサの方だ。それを今さら、どういうことだろうとラシェルは困惑した。ディルクとの間に割り込みたいという宣言かと訝る。
そんなラシェルの心を見抜いてか、
「それとも、ラシェル様は私のことがお嫌いですか?」
眉根を寄せた悲しげな瞳で、リサが訴えるように訊いてきた。
「いっ、いえ……そんなことは」
咄嗟のことに本音は出せず、濁しながらラシェルは答える。
「なら、安心しました」
ラシェルの返答に満足したのか、ふふっとリサは顔を綻ばせた。嬉しそうな声で満面の笑みを浮かべ、「ごめんあそばせ」とスカートを翻して立ち去る。
嵐のような時間だった。
振り返った先にディルクを見れば、何とも言えない、迷いと後悔が滲み出た表情をしている。
瞬間、ラシェルはディルクの手を取った。
「ラシェル……?」
「早く行こう。休み時間、終わっちゃう」
ディルクと目を合わせないまま、ラシェルは校舎の方へと足を向ける。
なんて顔をしてるんだろう、と思った。
言いたいこと、聞きたいこと、色々な感情が胸をよぎるが、そのどれもが言葉にできず、ラシェルもまた押し黙ってしまう。
それでも今は、私が彼の婚約者だという事実を支えに、それだけを必死に自分に言い聞かせ、彼の手を握りしめる。
力強い足取りで教室へと向かいながら、ラシェルはこの手を離したくないと、それだけを考えていた。




