101.愛の代償④
「……さっきも言ったが、ラシェル。俺はお前のことが好きだ」
コクン、と頷き返す。
その言葉には、もう何の疑念の余地もなかった。
「けどお前に、俺を好きになってもらおうとは思わない」
「え……」
「いっそ、嫌われたっていい」
どういうこと、とラシェルが聞き返すよりディルクが早かった。
「だが代わりに俺は、何がなんでもお前と結婚する。誰であろうと異論は許さない」
キッパリと、強い口調で言い放つ。
「本当はお前の痴態も含め、何一つ他人にくれてやるつもりはなかったが、まぁ、見るだけならギリギリ許容範囲だ。どんなにお前に嫌がられようと、どんな形でも、とにかく結婚してお前を手に入れ、俺のものにする。そう決めたんだ」
真っ直ぐに視線を注いでくる ディルクと向き合いながら、一体これは何なのだろうと、ラシェルは奇妙な気持ちに包まれた。
結婚を口にしているのだから、プロポーズか。
だが求婚されているにしては、あまりに殺伐とし過ぎてはいないだろうかと戸惑う。
少し声のトーンを下げ、彼は続けた。
「先のリサの話もそうだが、そもそも俺には、お前に好きになってもらえるだけの資格はないと、ずっと思っていた」
どういうことと、今度こそ聞き返す。
「だって、そうだろう。何より俺の身分は卑しい。両親に慈しまれ、生まれながらに貴族として育ってきたお前とは元々、住む世界が違うんだ」
「そんな……」
そんなことないと、貴方が孤児だったってことはニーナから聞いて知ってるわと返した。
けれどディルクは目線を下に落とし、お前は何も分かっていないと首を横に振る。
「俺には、五歳になるより前の記憶がない。物心ついた時には、既にスラムで物乞いをしていた。多分、生まれてすぐ本当の親にうち捨てられたんだろう。常に飢えていたし、垢と埃にまみれ、全身蚤と虱だらけの薄汚いガキだった。その後、俺は奴隷としてマフィアに売り飛ばされ、世の中のあらゆる汚い仕事に手を染めてきた。生きるために……いや、違うな。俺は率先して、引き受けてきたんだ。組織で成り上がるため、全ては自分自身のために」
言いながらディルクは、自らの手をじっと睨め付ける。
まるで憎むように……呪われた手だと言わんばかりに。
「っ、……」
そんなディルクを見て、ラシェルは胸が引き裂かれるような痛みに襲われた。
何故ならディルク、貴方を守ってきたのもまた、その手なのでしょう……と、思ったから。
貴方を抱きしめ、独りぼっちの貴方を温めてきたのは、たった二つの、その腕だけだったのではないかと。
レイラの言っていた、少年兵という言葉が脳裏に蘇る。
「しかも俺はラシェルを……その家族たちも含め、ずっと騙してきたんだ。君が大切にしている人たちを、諜報の隠れ蓑に利用してきた」
つう、とラシェルの頬を一筋の雫が伝う。
これまで直隠しにしてきた生い立ちと自らの罪を暴露する彼に、何と言ったら良いのか、言葉が出なかった。
代わりに、彼の口から紡がれる一言一言が、焼け付くような痛みを伴ってラシェルの心を刻んでいく。
前世も含め、自分が人生だと思って登ってきたどんな山より高く、険しく、深い断崖をディルクとの間に見せつけられている気がした。
それほどまでに、自分と彼が過ごしてきた世界には大きな隔たりがあるように感じる。
「でも今はそんなこと、もうどうでもいい」
そこでポツリと、ディルクは言った。
「祖国も、ランドルたちも、お前の両親もフィリドールのことだって、もうどうでもいいんだ」
とても非道いことを、彼は表情一つ変えず、どこか投げ遣りな口調で重ねていく。
それまでの雰囲気とはガラリと変えて話すディルクの姿を見て不安に思ったラシェルは、しかし次の瞬間、ハッとさせられた。
「お前が傍にいてくれたら、俺は他に何も要らない……」
言いながらディルクは身を乗り出し、ラシェルの間近に迫る。
その長身を屈めて目線を合わせると、ゆっくり近付いて来てラシェルを抱き締め、耳元で囁くように彼は続けた。
「爆発事故が起きて、お前を失ったかもしれないと思った瞬間、俺は気が付いたんだ。お前以外、何も要らない。一瞬だって、手放したくないと。喩え、それがお前の意に反することであったとしても、それで俺は何を失っても。今まで築き上げてきた何もかも、全て失くしたって構いやしない」
お前は俺のものだと、強い口調の中にも一瞬、涙ぐむ声が混じって聞こえ、ラシェルは自分の心が決壊するのを感じた。
「ラシェルと、離れたくない……」
死が二人を別つまで。
いつだったか、以前、交わした約束が過る。
あの時は、こんな瞬間が訪れようとは思いもしなかった。
ラシェルの背に回された彼の手が、指先が、小さく震えている。
今回の事故に、彼がどれ程の恐怖を覚えたのか、またラシェルのことをどれほど大切に思ってくれていたのか、ひしひしと伝わってきた。
それと同時に、自分もまた、深く彼を愛していると確信する。
これまでの自分と彼とが生きてきた道、そこにどれほどの隔たりがあったとしても、そんなもの一瞬で飛び越えるくらい、かけがえのない存在――――――……!
「私も、ディルクと離れたくなんてないよ」
気付けばラシェルも、力いっぱい彼を抱きしめていた。
そして直感する。
「けど、ディルク。これは違う……!」
こんなのは絶対、間違ってると。
だって、ラシェルは知っている。
口では悪く言っていても、ディルクがランドルのことを本当の兄のように慕っていることを。ニーナのことだって、歯に衣着せず言い合える妹のように可愛がってきた。
祖国であるレオノキアにしろ、これまで文明や経済について沢山教わってきたけれど、ディルクが誇りと愛着を持って語っていたからこそラシェルもまた、彼らによって持ち込まれた製品の数々に利便性だけでない羨望や憧れを抱いた。
そしてラシェルの父、ブリアックに対して抱く敬意と尊敬の念が、本物だということも分かっている。
これまでディルクは、父やラシェルが大切に守ってきたものを、同じく大事にしようと心を砕いてくれていた。
その最たるものが、ペリドール村の稲作事業だ。
採算が合わず、真っ先に切り捨てられそうなものを、彼は残してくれた。それらは全て、事業を興した先代とそれを敬う父への配慮、領民の生活、そして何よりラシェルの気持ちを思い遣ってしてくれたことだ。
ディルクがしてきたこと、ディルクが大事に思っているもの、大切にしてきてくれたこと。
どれもこれも、全て理解ってる。
上からの指令や任務もあっただろうに、それを掻い潜って精一杯、出来得る限りのことを彼は尽くしてくれた。
きゅっと手に力を籠め、ラシェルは握りしめる。
そして徐に、ディルクの胸を押した。
「ここからは、私に話させて」
少しできた隙間から、顔を上げて強い眼差しでリサと向き合う。
察した彼が力を緩め、腕の中からラシェルを解放した。
そのまま上掛を剥ぎ、ラシェルは裸足であることも気にせずリノリウムの床に降りる。ひんやりと足裏から伝わる冷たい感触に、頭の奥から冴え渡るのを感じた。
そしてリサの前に立つと、椅子に座る彼女の旋毛を見下ろしてラシェルも覚悟を決める。
今までたくさんディルクが守ってきてくれたように、今度は自分が彼を守る番だと思った。
「リサ……」
ここに来て初めて、敬称を省いてラシェルから呼ばれたことに気付いたリサが、何だと不敵に微笑んで見上げる。「やっと腹を括ったか?」
問う彼女に、ラシェルは深く頷き返した。
ここからはきっと、長い賭けになる。
これまでの人生と、これからの人生。
領民達の未来も背負って、私はこの決断に責任を持たなければいけない。
しかも絶対に、勝たなければいけない。
その為には当然、自分ができる最善を尽くす。
ラシェルはキッと、目に力を込めてリサを見た。
「けどその代わり、貴女に呑んでもらう条件をいくつか追加させて欲しいの」
「ほう、こっちにこれだけ譲歩させておいて、まだ我儘が言えると?」
「勿論。私の預り知らないところで、勝手に決められた内容よ。どう考えてもフェアじゃないわ。しかも何の断りもなく、ディルクの素性をレイラ様にリークするという裏切り行為を先に仕掛けたのは貴女の方だもの。こちらに対し、少しくらいのオマケは当然でしょう」
「こちら、ね……」
ラシェルの言葉尻を取って、リサがクスリと零す。
その仕草にラシェルは一瞬苛立ちを覚えるも、
「まぁ、いいだろう。内容にもよるが、話してみろ」
リサの返答に、ぐっと堪えた。
「追加してもらいたい条件は二つ。まずは父も含め、フィリドールが造反との嫌疑を晴らしてちょうだい」
「そこは案じなくていい。ディルクの罪を不問とすれば、自動的に存在しなかったものとして処理されるから安心しろ」
リサの答えに納得して、ラシェルは頷く。
「もう一つは、ランドルとニーナの罪も不問にしてほしいの。これを交渉カードに、二人にもこちらへ寝返ってもらうわ」
「男の方はいいとして、……ニーナと言うのは、ひょっとするとマフィアの一人娘か?」
「ニーナ・バーベリよ。今は私の、王都での侍女をしてくれてるの。バーベリ商会会長の娘……なんでしょう、彼女?」
ディルクを顧みて、ラシェルは訊く。
隠す様子もなく、ディルクが「ああ」と肯定する。
「ひょっとしてお前、あの女も手懐けているのか……?」
「手懐けるって……ペットじゃないんだから。彼女は私の大切な親友よ。ここまで事情を知ってて、見捨てるようなことはしたくないの」
「そうか……あの、バーベリの……」
これは意外と早く話が纏まりそうだなとリサが独り言つ。
「分かった。交渉も任せる。だが、ヘマはするなよ。絶対にコッチへ引き入れろ」
「そこはまず心配ないだろう。ここ最近、ニーナは事ある毎に足抜けしたいと匂わせていたし、そうなればランドルも付いて来るだろうから」
それまで気後れした様子だったディルクが二人の話に割って入り、断言する。
「取引成立だな」
リサの言葉に、ラシェルはディルクと目を合わせてから頷いた。




