第8話 私は変わった
それから数日。
ゆみえの生活は、少しずつ変わっていた。
朝起きる。
鏡を見る。
銀色の髪を整える。
緑色の瞳を見る。
そして――。
「……今日も綺麗」
自分でそう思うことにも、慣れてきた。
最初は鏡を見るたびに違和感があった。
けれど今では、この身体で生活することが当たり前になりつつある。
「おはよう、ゆみえ!」
「おはよう」
村を歩けば、声をかけられる。
店に入れば、笑顔を向けられる。
以前の世界では、ほとんど経験したことのないことだった。
それは、やっぱり嬉しかった。
――私は、変わった。
そう思っていた。
◇
「ゆみえ!」
村の広場で、リリアが手を振っている。
「今日は市場に行こうよ」
「うん」
二人で市場へ向かう。
すると、途中で一人の青年とすれ違った。
「……」
ゆみえは、無意識にその青年から少し距離を取った。
青年は太っていた。
髪は薄く、肌にはニキビがある。
服装もあまり清潔には見えなかった。
その瞬間。
ゆみえの胸の中に、ある感情が浮かんだ。
「……ちょっと嫌だな」
自分でも気づかないほど自然に。
ただ、それだけだった。
青年が通り過ぎる。
ゆみえは何事もなかったように歩き続けた。
「ゆみえ?」
「なに?」
「今、避けた?」
「え?」
「さっきの人」
「……」
ゆみえは黙った。
「別に……」
「そう?」
リリアはそれ以上聞かなかった。
でも。
ゆみえ自身は気づいていた。
自分が、あの青年を避けたことを。
◇
昼過ぎ。
ノアの家を訪ねた。
「ノア、いる?」
「……いる」
扉が開く。
「今日は何してたの?」
「本を読んでた」
「どんな本?」
「魔法の本」
「難しそう」
「ゆみえには無理だよ」
「ひどい」
「だって、ゆみえって魔法使えないじゃん」
「まだ使ったことがないだけ!」
「同じことだよ」
ノアが笑う。
ゆみえも笑った。
少しずつ。
この関係が自然になってきていた。
そのとき。
「……ねえ」
ノアが言った。
「ん?」
「ゆみえは、町で人気なんでしょ?」
「どうして?」
「みんな話してる」
「……そうなの?」
「綺麗なエルフが来たって」
ゆみえは少し照れた。
「まあ……」
「嬉しい?」
「……うん」
「そっか」
ノアは本に視線を戻した。
「じゃあ、僕みたいなのと一緒にいるのは嫌じゃないの?」
「どうして?」
「だって……」
ノアは自分の顔を触った。
「僕、醜いから」
ゆみえは何も言えなかった。
「昔から言われてる」
「……」
「学校でも、店でも」
ノアは笑った。
でも、その笑顔は寂しかった。
「綺麗な人は、僕とは違う世界にいるんだって」
その言葉を聞いた瞬間。
ゆみえの胸が痛くなった。
「そんなことないよ」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、僕の顔が綺麗じゃなくても、友達でいてくれる?」
「もちろん」
ゆみえは即答した。
「顔なんて関係ないよ」
言ったあと。
その言葉が、自分の胸に突き刺さった。
――顔なんて関係ない。
本当に?
数時間前。
自分は誰かの外見を見て、避けた。
それなのに。
「……私」
「ん?」
「いや……なんでもない」
◇
帰り道。
ゆみえは一人だった。
夕方の道を歩きながら、昼間の出来事を思い返していた。
太った青年。
荒れた肌。
薄い髪。
清潔ではない服。
そして、自分の中に生まれた感情。
「嫌だ」
その感情を、何度も思い返す。
前の自分なら――。
同じような目で見られていた。
太っている。
醜い。
近づきたくない。
そう思われていた。
「……私も」
足が止まる。
「私も、同じことをしてる」
気づいた瞬間。
急に怖くなった。
自分は、この世界に来て何が変わった?
顔が変わった。
年齢が変わった。
身体が変わった。
人生まで変わった。
でも――。
「心は……変わってない」
むしろ。
美しい側に立ったことで。
今まで自分が受けていたものを、今度は自分が誰かにしている。
「……最低」
自分で自分を責める。
でも。
そこで、別の声が頭の中に浮かんだ。
『仕方ないじゃん』
『嫌だと思うものは嫌なんだから』
『誰だって綺麗な人が好き』
それもまた、自分の本音だった。
ゆみえは顔を上げた。
夕焼けが綺麗だった。
以前なら、こんな景色を見ても自分のことばかり考えていた。
でも今は違う。
世界が見える。
人が見える。
そして――。
自分自身が見える。
「……私って」
小さく笑った。
「こんな人間だったんだ」
◇
その夜。
ゆみえは眠りについた。
夢を見た。
古い教室。
机。
黒板。
そして――。
そこに座っている少女。
太った身体。
俯いた顔。
誰にも話しかけられない少女。
「……私」
夢の中のゆみえは、その少女に近づいた。
「ねえ」
少女が顔を上げる。
「誰?」
「私だよ」
「……知らない」
「私」
ゆみえは自分の顔を指差した。
「あなたの未来」
少女は不思議そうに見つめる。
「綺麗だね」
「……」
「どうして泣いてるの?」
「……分からない」
少女は答えた。
「綺麗になったら、幸せになれるんじゃなかったの?」
ゆみえの身体が固まった。
「……え?」
「ずっとそう思ってたんでしょ?」
「……」
「綺麗になれば」
「……」
「若くなれば」
「……」
「誰かに愛してもらえるって」
ゆみえは何も言えなかった。
少女が笑う。
「じゃあ――」
一歩、近づいてくる。
「どうして、まだ泣いてるの?」
「……」
「どうして?」
「……分からない」
その瞬間。
少女の顔が、自分の顔に変わった。
美しいエルフ。
銀色の髪。
緑色の瞳。
そして、その顔が――。
ゆっくりと崩れていく。
「やめて……」
ゆみえが後ずさる。
「やめて!」
鏡が割れる。
無数の破片。
その一つ一つに、違う自分が映っていた。
醜い自分。
若い自分。
美しい自分。
泣いている自分。
笑っている自分。
そして。
誰かを見下している自分。
「嫌……」
ゆみえは目を閉じた。
「私は、こんな人間じゃない」
どこからか声が聞こえる。
『本当に?』
「……」
『あなたは、変わった?』
「……」
『顔が変わっただけじゃない?』
「違う……」
『じゃあ、証明して』
「どうやって……?」
『次に、醜い人を見たとき――』
声が消える。
『あなたは、その人をどう見る?』
「……」
ゆみえは目を開いた。
ベッドの上だった。
朝。
汗で身体が濡れている。
「……夢」
胸に手を当てる。
心臓が激しく鳴っている。
そして。
その日の午後。
ゆみえは再び、昨日の青年とすれ違った。
青年はこちらに気づいた。
ゆみえも気づいた。
以前なら。
目を逸らしていた。
距離を取っていた。
けれど――。
ゆみえは立ち止まった。
「……こんにちは」
青年が驚いた顔をする。
「え?」
「こんにちは」
もう一度言った。
青年は戸惑いながら。
「……こんにちは」
と返した。
たった、それだけ。
何も変わっていない。
青年の顔も。
ゆみえの顔も。
世界も。
けれど。
ゆみえの中で、何かがほんの少しだけ変わった。
「……私、変われるのかな」
その答えを、彼女はまだ知らない。
ただ一つだけ分かった。
美しくなることと。
美しい人間になることは。
――まったく別のことなのだ。




