第18話 幸せだった?
夜。
ゆみえは眠れなかった。
窓の外には、青白い月が浮かんでいる。
昼間に見た光景が、何度も頭の中に蘇っていた。
――君は、この世界の人間ではない。
――君は呼ばれた。
――生まれ変わりには、理由がある。
「……そんなの」
ゆみえは布団の中で呟いた。
「分かるわけないよ……」
前の世界では。
自分はただの人間だった。
特別な才能もなかった。
美しくもなかった。
誰かに必要とされることもなかった。
だからこそ。
最後に願った。
生まれ変わりたい。
若くなりたい。
綺麗になりたい。
愛されたい。
幸せになりたい。
その願いが。
まさか――。
「……誰かに聞かれていたの?」
そう思った瞬間。
背後から声がした。
「起きてる?」
ゆみえが振り向く。
そこにはセレナが立っていた。
「セレナ……」
「眠れない?」
「うん」
セレナはゆっくりと隣に座った。
「私も」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、ゆみえが口を開く。
「セレナは……ヴァルガスのこと、昔から知ってたんだよね」
「ええ」
「どんな人だったの?」
セレナは少し考えた。
「昔は、今ほど極端じゃなかった」
「……え?」
「美しいものを愛する人だった。でも、最初はそれだけだった」
セレナは遠くを見る。
「美しい花。
美しい建物。
美しい音楽。
美しい人。
そういうものに価値があると考えていた」
「普通……なのかな」
「そうかもしれない」
セレナは頷いた。
「でも、少しずつ変わっていった」
「どうして?」
「美しいものが評価されるのを見ているうちに――」
セレナは小さく息を吐いた。
「美しくないものは、評価されなくて当然だと思うようになった」
ゆみえは何も言えなかった。
それは。
少し前までの自分にも、似ていたからだ。
「……私も」
「うん」
「最初は、ただ綺麗になりたかっただけ」
「うん」
「でも、綺麗になったら……今度は、綺麗じゃない人を見る目が変わった」
セレナがゆみえを見る。
「だから怖い」
「何が?」
「私も、ヴァルガスみたいになってしまうんじゃないかって」
セレナは首を横に振った。
「大丈夫」
「どうして?」
「あなたは怖がっているから」
「……」
「本当に人を見下している人は、自分が見下していることを怖がったりしない」
その言葉が、ゆみえの胸に刺さった。
「じゃあ……」
ゆみえは小さく笑った。
「私は、まだ大丈夫なのかな」
「きっと」
セレナはそう答えた。
その夜。
ゆみえは久しぶりに眠った。
夢を見た。
真っ白な場所。
何もない。
ただ、一人の女性が立っていた。
――四十九歳の自分。
「……また会ったね」
昔のゆみえが言った。
「どうして……」
「聞きたいことがあるんでしょ?」
「あなたは、何なの?」
「あなた自身だよ」
「違う」
ゆみえは首を振る。
「私はもう、二十歳だよ」
「身体はね」
昔のゆみえは微笑んだ。
「でも、あなたの中には私がいる」
「……」
「忘れた?」
昔の自分が近づいてくる。
「あなたは、私だった」
「うん」
「私が死ぬ直前、何を願った?」
ゆみえは答えた。
「生まれ変わりたい」
「何のために?」
「幸せになるため」
「どうやって?」
「……綺麗になって」
昔のゆみえが笑った。
「それで?」
ゆみえは答えられなかった。
「綺麗になった」
「……」
「若くなった」
「……」
「人から優しくされるようになった」
「……うん」
「恋をした」
レオンの顔が浮かんだ。
ルシアンの顔が浮かぶ。
アルベルトの顔も。
そして。
蓮の顔。
「それで?」
「……」
「幸せだった?」
その言葉に。
ゆみえは胸を押さえた。
「……分からない」
「どうして?」
「だって……」
涙が落ちる。
「私は、幸せになるために生まれ変わったはずなのに」
「うん」
「どうして、まだこんなに苦しいの?」
昔のゆみえは、優しく微笑んだ。
「それはね」
「……」
「あなたが、幸せを誰かに決めてもらおうとしていたからだよ」
ゆみえは顔を上げた。
「誰かに愛されれば幸せ」
「……」
「綺麗だと言われれば幸せ」
「……」
「必要とされれば幸せ」
「……」
「でも、それって全部――」
昔のゆみえが、自分の胸を指差した。
「他人の目なんだよ」
ゆみえは何も言えなかった。
「あなたは昔、醜い自分を嫌っていた」
「うん」
「でも本当は、自分が醜かったから苦しかったんじゃない」
「……じゃあ、何?」
「醜いから価値がないと思っていたから」
その瞬間。
夢の世界が崩れ始めた。
「待って!」
ゆみえが手を伸ばす。
「まだ聞きたい!」
昔のゆみえは笑った。
「じゃあ、一つだけ覚えておいて」
「何?」
「幸せだったかどうかを決めるのは――」
その声が遠くなる。
「あなた自身だよ」
「……!」
ゆみえは目を覚ました。
朝だった。
頬が濡れていた。
「……夢」
そう呟いた。
けれど。
胸の奥には、確かなものが残っていた。
幸せを。
誰かに決めてもらわない。
美しいから幸せ。
愛されるから幸せ。
必要とされるから幸せ。
そんなものだけではない。
ゆみえは立ち上がった。
鏡の前に立つ。
そこには。
銀色の髪。
緑色の瞳。
美しい顔。
二十歳の身体。
以前の自分とは、何もかも違う。
けれど。
「……おはよう」
鏡の中の自分に言った。
鏡の中の女性も笑った。
「今日も、私だね」
そのとき。
扉が叩かれた。
「ゆみえ」
レオンの声だった。
「入っていい?」
「うん」
扉が開く。
レオンは少し心配そうな顔をしていた。
「昨日から、ずっと考えてた」
「何を?」
「君がヴァルガスのところへ行くのか」
ゆみえは黙った。
「……行くよ」
レオンの顔が曇る。
「危険だよ」
「分かってる」
「僕も行く」
「ダメ」
「どうして?」
「私自身のことだから」
レオンは何も言わなかった。
ゆみえは続ける。
「私はずっと、誰かに人生を決めてもらいたかった」
「……」
「前の人生では、誰にも選ばれなかった」
「……」
「だから、今度は誰かに選んでもらえる自分になろうとした」
ゆみえはレオンを見る。
「でも、それじゃ駄目なんだと思う」
「ゆみえ……」
「私は、自分で選びたい」
レオンはしばらく黙ったあと。
静かに笑った。
「分かった」
「……いいの?」
「うん」
「心配じゃない?」
「心配だよ」
「じゃあ――」
「でも」
レオンはゆみえの目を見た。
「君が自分で選んだことなら、僕は尊重する」
その言葉に。
ゆみえは少しだけ笑った。
「ありがとう」
そして。
その日の夕方。
ゆみえは一人で森へ向かった。
ヴァルガスから指定された場所。
誰にも言わずに。
ただ一人で。
森の奥。
木々の間から、古い石造りの建物が見えた。
扉の前に立つ。
怖い。
逃げたい。
それでも。
ゆみえは扉を開けた。
中には、ヴァルガスがいた。
「来たか」
「聞きたいことがあります」
「何でも聞くといい」
「私がこの世界に来た理由」
ヴァルガスは微笑んだ。
「君は、死ぬ直前に願った」
ゆみえの身体が固まる。
「『生まれ変わりたい』と」
「……どうして知ってるの?」
「この世界には、魂を観測する魔法がある」
「魂……?」
「君の魂は、この世界のものではなかった」
ヴァルガスは一冊の古い本を開いた。
「君が死んだ瞬間」
ページに描かれた魔法陣が淡く光る。
「君の魂が、この世界に流れ込んだ」
「じゃあ……」
ゆみえの声が震えた。
「私を呼んだのは、誰?」
ヴァルガスは答えなかった。
代わりに。
一枚の古い絵を見せた。
そこには。
巨大な魔法陣。
その中心に、一人の女性。
銀色の髪。
緑色の瞳。
尖った耳。
ゆみえと同じ姿。
「……私?」
「違う」
ヴァルガスは言った。
「君が生まれ変わる前から存在していた」
「……どういうこと?」
「この世界には、昔から『異世界の魂を受け入れる器』が存在する」
ゆみえの顔から血の気が引いた。
「その器が――」
ヴァルガスはゆっくりと笑った。
「君だった」
「……私が?」
「そうだ」
そして。
彼は最後の一言を告げた。
「君は、偶然この世界に転生したんじゃない」
ゆみえは息を呑んだ。
「この世界が――」
ヴァルガスの声が響く。
「君を必要としたんだ」
その瞬間。
建物全体が震えた。
遠くで。
何か巨大なものが目を覚ますような音がした。
ゆみえは振り返った。
窓の外。
森の奥から。
あの日と同じ青白い光が、空へ伸びていた。
そして。
ゆみえは初めて思った。
自分が幸せになるために来たと思っていた、この世界は。
もしかしたら。
自分に何かを求めているのかもしれない。
「……私は」
ゆみえは呟いた。
「この世界で、何をするために生まれ変わったの?」
答えは。
まだ、誰も教えてくれなかった。




