第17話 私は何者なのか
「一つだけ、聞かせてください」
ゆみえは、ヴァルガスを見つめていた。
黒い衣服。
感情の薄い目。
その姿には、聖人のような清らかさも、王族のような華やかさもなかった。
なのに――。
ゆみえは、なぜか目を逸らせなかった。
「あなたは……私に何をさせたいんですか?」
ヴァルガスは微笑んだ。
「何も」
「……え?」
「君には、何かをしてもらう必要などない」
一歩。
ヴァルガスが近づく。
「ただ、そこにいてくれればいい」
「それだけ?」
「そうだ」
彼はゆみえの顔を見た。
正確には――顔だけを見ていた。
「君は、この国で最も美しい」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、わずかに震えた。
――最も美しい。
前の人生では、一度も言われなかった言葉。
それどころか。
醜い。
太っている。
暗い。
近寄りにくい。
そんな言葉ばかりだった。
鏡を見ることさえ嫌だった。
誰かに見られることが怖かった。
恋愛なんて、自分には関係のないものだと思っていた。
だから――。
この世界に来たとき。
初めて鏡を見たとき。
美しい自分を見たとき。
泣いた。
嬉しかった。
これで人生が変わる。
そう思った。
そして実際に、変わった。
人々が笑顔で話しかけてくれる。
店では丁寧に扱われる。
男性から声をかけられる。
王族とも話ができる。
以前なら、自分とは無関係だった世界が、自分のために開いていく。
だから。
「……私は」
ゆみえは唇を噛んだ。
「この顔が、嫌いじゃありません」
ヴァルガスの目が細くなる。
「そうだろう」
「でも……」
ゆみえは続けた。
「この顔だけで、私の価値を決められるのは嫌です」
ヴァルガスは少しだけ黙った。
「なぜ?」
「私は、この顔になる前も……私だったから」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に、昔の自分が浮かんだ。
四十九歳の自分。
醜い自分。
一人ぼっちだった自分。
誰にも愛されなかった自分。
そして――。
蓮に告白した自分。
「私は、昔……美しくなれば幸せになれると思っていました」
ヴァルガスは黙って聞いている。
「でも、違いました」
「違う?」
「美しくなったら、幸せになると思った。でも……」
ゆみえは自分の手を見た。
細く、白い指。
以前とはまったく違う手。
「美しくなったら、今度は『この美しさを失ったらどうなるんだろう』って怖くなった」
その瞬間。
ヴァルガスが笑った。
「やはり、君は分かっている」
「……何を?」
「美しさには価値がある」
「……」
「美しい者が優遇されるのは当然だ。美しい者が尊敬されるのも当然だ。ならば、その価値を認めればいい」
「違う」
ゆみえは即座に否定した。
「何が違う?」
「美しいことに価値があることと、美しくない人に価値がないことは……同じじゃない」
ヴァルガスの笑みが消えた。
「綺麗な花と、綺麗ではない花があったとして」
ゆみえは言った。
「綺麗な花だけを残して、他を踏み潰していい理由にはならない」
「綺麗な花を見たいと思うのは、人間の自然な感情だ」
「そうかもしれません」
「ならば――」
「でも」
ゆみえはヴァルガスを見据えた。
「人間は、自然な感情だけで生きていいわけじゃない」
沈黙。
その言葉に、レオンが小さく息を呑んだ。
ノアも何も言わなかった。
セレナだけが、ゆみえを見ていた。
その目には――どこか悲しさがあった。
「……私も、最初はあなたの考えに近かった」
セレナが口を開いた。
「セレナ?」
「美しいと言われることが嬉しかった。必要とされることが嬉しかった」
彼女は自分の長い髪を指で撫でた。
「でも、いつからか……私は私ではなくなった」
「……」
「人々は私を『聖女』と呼ぶ。でも、私が何を怖がっているのかを聞く人はいなかった」
セレナはヴァルガスを見る。
「あなたも同じだった」
「私は君を評価している」
「違う」
セレナは首を横に振った。
「あなたは私の顔を評価している」
ヴァルガスは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ゆみえの背中に冷たいものが走った。
この男は。
自分のことも、セレナのことも。
人間として見ていない。
美しい存在としてしか見ていない。
その事実が、ようやくはっきりした。
「ゆみえ」
レオンが呼んだ。
振り向く。
レオンは少し迷ったような顔をしていた。
「僕は……君を守りたい」
その言葉に、ゆみえの胸が温かくなる。
けれど。
レオンは続けた。
「でも、君がどうするかは、君が決めていいと思う」
ゆみえは目を見開いた。
「僕が勝手に決めたら、ヴァルガスと同じになるから」
「……レオン」
「君は、誰かの所有物じゃない」
その言葉が胸に残った。
王子も。
聖女も。
ヴァルガスも。
レオンも。
みんな違う。
けれど。
誰かの価値を、誰かが決めようとした瞬間。
その人は、その人自身ではなくなる。
「ゆみえ」
今度はノアだった。
「僕は……難しいことは分からないけど」
ノアは少し恥ずかしそうに笑った。
「ゆみえは、ゆみえだよ」
たった、それだけだった。
けれど。
ゆみえには、それで十分だった。
前の人生。
誰かにそんなふうに言ってほしかった。
醜くても。
太っていても。
年を取っていても。
恋人がいなくても。
何の役にも立たなくても。
「あなたは、あなたでいい」
そう言ってほしかった。
なのに。
四十九年間、一度も言われなかった。
「……ありがとう」
ゆみえは笑った。
その笑顔を見て、ヴァルガスが静かに言った。
「残念だ」
「何が?」
「君なら理解できると思っていた」
「……」
「いや」
ヴァルガスは視線を落とした。
「理解できないのではない」
そして。
ゆっくりと顔を上げた。
「君はまだ、自分が何者なのか知らないだけだ」
「……どういう意味?」
「君は、この世界の人間ではない」
空気が止まった。
ゆみえの心臓が、大きく跳ねた。
「……何を」
「君がこの世界に現れた夜」
ヴァルガスは言った。
「森で、大規模な魔力の異常が起きた」
ゆみえの顔から血の気が引いていく。
それは――。
自分が倒れていた場所。
この世界に来た場所。
「偶然ではない」
「……嘘」
「君は呼ばれた」
「誰に?」
ヴァルガスは答えなかった。
代わりに、ゆみえの顔をじっと見つめた。
「君自身も、気づいているはずだ」
「何に……?」
「前の世界の記憶を持っていることに」
ゆみえの身体が震えた。
誰にも話していない。
前の人生のこと。
四十九年間生きたこと。
蓮のこと。
死ぬ直前に願ったこと。
誰にも――。
「どうして……知ってるの?」
初めて。
ヴァルガスの表情から笑みが消えた。
「君が、この世界に来た理由を知りたければ――」
彼は背を向けた。
「私のところへ来い」
「……」
「君が望んだ『生まれ変わり』には、理由がある」
ゆみえは動けなかった。
ヴァルガスたちが去っていく。
誰も追わなかった。
ただ、その場に残されたゆみえだけが。
自分の胸に手を当てていた。
どくん。
どくん。
心臓が激しく鳴っている。
――生まれ変わりには、理由がある。
そんなはずはない。
自分はただ。
死ぬ前に願っただけだった。
もう一度。
若くなりたい。
綺麗になりたい。
愛されたい。
幸せになりたい。
その願いが。
もし――。
誰かによって叶えられたものだったとしたら。
「私は……」
ゆみえは呟いた。
「何者なの……?」
答えは返ってこなかった。
ただ。
遠くの森の向こうで。
青白い光が、一瞬だけ空を照らした。
そしてゆみえは見た。
自分がこの世界に来た、あの夜と同じ光を。




