第14話 過去は消えない
王宮から届いた招待状を、ゆみえは何度も読み返した。
白い封筒。
王家の紋章。
差出人は、第一王子ルシアン。
『ぜひ一度、王宮へお越しいただきたい』
それだけの短い文章だった。
「どうしよう……」
ゆみえは困ったように呟いた。
「行けばいいんじゃない?」
リリアはあっさりと言った。
「そんな簡単に……」
「だって王子様からの招待だよ?」
「それが怖いの」
「どうして?」
ゆみえは答えられなかった。
ルシアンに会うのが怖い。
正確には――。
ルシアンを見たとき、自分の心がどうなるのかが怖かった。
彼を見ると、どうしても思い出してしまう。
前の世界。
四十九歳の自分。
そして――。
蓮。
初めて本気で好きになった人。
人生でたった一度、自分から「好き」と伝えた人。
そして。
自分を拒絶した人。
悪い人ではなかった。
優しかった。
だからこそ、忘れられなかった。
「……行く」
ゆみえは答えた。
「本当に?」
「うん」
逃げてばかりではいられない。
そう思った。
◇
王都へ向かう馬車の中。
ゆみえは窓の外を眺めていた。
森を抜ける。
小さな村を通る。
広い平原を進む。
やがて遠くに巨大な城壁が見えてきた。
「……大きい」
王都だった。
たくさんの人が暮らしている。
商人。
兵士。
貴族。
旅人。
様々な人が行き交っている。
そして。
王都に入った瞬間から、ゆみえには視線が集まった。
「エルフだ」
「綺麗……」
「誰だ?」
「王族の客じゃないか?」
まただ。
どこへ行っても。
自分は見られる。
以前なら嬉しかった。
今は――。
少し疲れる。
「ゆみえ」
レオンが声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
「緊張してる?」
「少し」
レオンは笑った。
「僕も緊張してる」
「どうして?」
「王宮なんて初めてだから」
「ふふ」
ゆみえは少し笑った。
その笑顔を見て、レオンも笑う。
その瞬間。
以前よりも自然に呼吸ができた。
レオンといると。
自分が「美しいエルフ」ではなく。
ただの「ゆみえ」でいられる。
それが少し嬉しかった。
◇
王宮。
広い廊下。
高い天井。
豪華な絵画。
大きな窓。
何もかもが現実とは思えないほど美しかった。
「すごい……」
ゆみえが呟く。
「気に入った?」
声がした。
振り返る。
ルシアンだった。
「殿下」
「来てくれてありがとう」
相変わらず美しい。
金色の髪。
青い瞳。
完璧な笑顔。
見ているだけで、胸が高鳴る。
けれど。
今日は違った。
以前のように、ただ「かっこいい」と思うだけではなかった。
この人は、どんな人なのだろう。
ゆみえはそう思った。
「お招きいただいてありがとうございます」
「こちらこそ」
ルシアンは優しく微笑んだ。
「君と、もっと話してみたかったんだ」
「私と?」
「そう」
ゆみえの心臓が跳ねる。
「君は、この世界に来てから、ずいぶん変わったように見える」
「……分かりますか?」
「以前の君は、もっと周囲の視線を喜んでいた」
ゆみえは驚いた。
見られていた。
自分の変化を。
「最近は?」
「……少し怖いです」
「視線が?」
「はい」
ルシアンは考えるような顔をした。
「どうして?」
「分かりません」
ゆみえは正直に答えた。
「最初は、見られることが嬉しかったんです」
「うん」
「でも、最近は……私を見ているようで、私を見ていない人が多い気がして」
ルシアンは静かに聞いていた。
「君自身を見てほしい?」
「……はい」
その言葉を口にすると。
胸が少し苦しくなった。
それは、ずっと欲しかったものだった。
◇
食事の席。
ルシアン。
ゆみえ。
レオン。
三人で食卓を囲んでいた。
料理は豪華だった。
見たこともない食材。
美しい盛り付け。
以前の自分なら、夢のような時間だっただろう。
けれど。
食事をしている間も、ゆみえはルシアンを観察していた。
彼は料理人に感謝し。
給仕の人にも笑顔を向け。
レオンにも気さくに話しかける。
やっぱり。
誰にでも優しい。
それが悪いわけではない。
むしろ素晴らしいことだ。
でも――。
胸の奥に、少しだけ寂しさが生まれた。
そのとき。
「ゆみえ」
「はい?」
「君は、何か悩みがあるね」
「……」
「よければ話してほしい」
優しい声。
ゆみえは一瞬、蓮を思い出した。
同じだった。
笑顔。
声。
優しさ。
誰にでも分け隔てなく接するところ。
「……」
胸が苦しくなる。
「どうした?」
「すみません」
「謝らなくていい」
ゆみえは目を閉じた。
「昔、好きだった人に似ているんです」
ルシアンが少し驚いた。
「僕が?」
「はい」
「その人とは……」
「もう会えません」
それだけ言った。
死んだとは言わなかった。
別の世界にいるとも言えなかった。
ただ。
「その人は、私のことを好きではありませんでした」
ルシアンは黙った。
「でも、優しい人でした」
「……それは、辛かったね」
「はい」
ゆみえは笑った。
「すごく好きだったから」
◇
食事が終わった後。
ゆみえは一人で王宮の庭に出た。
夜だった。
空には無数の星が浮かんでいる。
この世界に来てから、何度も見た景色。
でも今夜は。
なぜか前の世界を思い出した。
四十九歳の自分。
狭い部屋。
一人の食事。
鏡を見るたびに嫌になる。
そして。
蓮に告白した日のこと。
『ありがとうございます。でも……ごめんなさい』
あの言葉。
今でも鮮明に覚えている。
「……私」
ゆみえは呟いた。
「まだ、あの人を好きなのかな」
「誰を?」
背後から声がした。
ゆみえは振り返った。
ルシアンではない。
アルベルトだった。
「殿下……」
「驚かせたか?」
「はい」
「すまない」
アルベルトは少し離れたところに立っていた。
「ルシアンから聞いた」
「何を?」
「君が昔、好きだった男の話」
「……」
「まだ好きなのか?」
ゆみえはしばらく考えた。
「分かりません」
「そうか」
「でも……」
ゆみえは空を見上げる。
「忘れられないんです」
「それは、好きということとは違うかもしれない」
「え?」
「忘れられないことと、今も愛していることは同じではない」
ゆみえは黙った。
「人間は過去を消せない」
アルベルトは言った。
「だが、過去に未来まで決めさせる必要はない」
「……」
「君は、その男に拒絶された」
「はい」
「だから自分を嫌いになった」
「……はい」
「だが」
アルベルトはゆみえを見る。
「彼が君を選ばなかったことと、君に価値がないことは、まったく別の話だ」
ゆみえの目から涙が落ちた。
「……そんなこと」
「分かっていた?」
「……分かりませんでした」
「今は?」
ゆみえは涙を拭った。
「少しだけ……分かる気がします」
◇
その翌日。
王宮を出る前。
ルシアンがゆみえを呼び止めた。
「ゆみえ」
「はい?」
「また来てくれる?」
ゆみえは少し考えた。
「……はい」
「ありがとう」
ルシアンは笑った。
その笑顔を見て。
やはり綺麗だと思った。
そして――。
やはり、蓮とは違う人だと思った。
似ている。
けれど違う。
もう、過去の人と重ねてはいけない。
「殿下」
「何?」
「私、少しだけ分かったことがあります」
「何かな?」
「あなたは、あなたなんですね」
ルシアンは一瞬、目を丸くした。
そして笑った。
「当たり前だよ」
「そうですよね」
ゆみえも笑った。
王宮を出る。
馬車に乗る。
レオンが隣に座る。
「楽しかった?」
「うん」
「ルシアン殿下と?」
「……それもある」
「それも?」
「うん」
ゆみえは窓の外を見る。
「自分の過去と、少し向き合えたから」
レオンは何も言わなかった。
ただ。
ゆみえの隣に座っていた。
その距離が。
今は心地よかった。
◇
帰り道。
馬車が森を抜ける。
夕暮れの光が、木々の隙間から差し込んでいる。
ゆみえは目を閉じた。
蓮のことを思い出す。
四十九歳だった自分を思い出す。
醜い自分。
寂しかった自分。
愛されたかった自分。
全部。
消す必要なんてないのかもしれない。
あの人生があったから。
今の自分がいる。
あの痛みがあったから。
今、人の痛みに気づける。
だから――。
「さよなら」
ゆみえは小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
蓮へなのか。
過去の自分へなのか。
それとも。
あの頃の「愛されなければ価値がない」と思っていた自分へなのか。
ただ。
もう一度だけ。
自分の人生を生きてみようと思った。
美しい身体で。
美しい顔で。
そして。
醜かった過去も抱えたままで。
そのとき。
馬車の前方から、突然大きな音が響いた。
「止まれ!」
馬車が急停止する。
「何?」
レオンが立ち上がる。
外から怒鳴り声が聞こえた。
「聖女セレナ様をお連れしろ!」
「……え?」
ゆみえが窓から外を見る。
そこには――。
黒い服を着た男たちがいた。
そして、その中心に。
セレナが立っていた。
いつもの美しい笑顔はない。
怯えた顔をしている。
その瞬間。
ゆみえは気づいた。
これは偶然ではない。
そして。
自分もまた、巻き込まれようとしている。
美しい者を求める人間たちの世界に。




