第11話 あなたは私を見ている?
翌朝。
ゆみえは、鏡の前に立っていた。
長い銀色の髪。
透き通るような肌。
緑色の瞳。
尖った耳。
鏡の中にいるのは、どう見ても美しい女だった。
けれど――。
「……これが、私……」
以前の自分なら、何時間でも眺めていたかもしれない。
こんな顔になれたら。
こんな身体になれたら。
若くなれたら。
そうすれば、きっと人生は変わる。
そう思っていた。
実際、変わった。
道を歩けば振り返られる。
店に入れば笑顔を向けられる。
男たちから声をかけられる。
困っていれば誰かが助けてくれる。
以前の自分には、一度もなかったことばかりだった。
だからこそ、最近のゆみえは怖かった。
「……私、本当に幸せなのかな」
鏡の中の自分は、何も答えなかった。
その日の昼。
リリアと町へ出た。
町はいつもと変わらない。
人々が行き交い、店先には色とりどりの商品が並んでいる。
そして――。
ゆみえの姿を見た人々が、ちらちらと視線を向ける。
「ねえ、ゆみえ」
「なに?」
「昨日のこと、気にしてる?」
「昨日?」
「アルベルト殿下のこと」
ゆみえは足を止めた。
「あ……」
昨日、遠くから見ただけの男。
人々が避けるように歩いていた。
傷の残った顔。
整えられていない黒髪。
質素な服。
王族には見えない姿。
それが、人間王国の第三王子。
アルベルトだった。
「……ちょっと気になってる」
「珍しいね」
リリアが笑った。
「ゆみえが王子様を気にするなんて」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってるって」
リリアは少しだけ表情を曇らせた。
「アルベルト殿下は、あまり人前に出ないから」
「どうして?」
「みんな、あの人の顔を怖がるの」
「……顔を?」
「うん」
リリアは小さく頷いた。
「でも、本当はすごく頭がいいって聞いてる。魔法も政治も詳しいし、貧しい地域への支援もしてるらしいよ」
「じゃあ、どうして……」
「どうして人気がないのかって?」
「うん」
リリアは少し考えてから言った。
「この国では、王族は美しくあるべきって考える人が多いから」
胸の奥が、ざわついた。
聞き覚えのある言葉だった。
――美しい人は価値がある。
――醜い人は価値がない。
以前の世界でも、形こそ違っていたが、同じようなことはあった。
そして今。
自分は、その「美しい側」にいる。
「……会ってみたい」
「え?」
「アルベルト殿下に」
リリアが驚いた顔をした。
「本気?」
「うん」
ゆみえは答えた。
「ちゃんと、話してみたい」
◇
アルベルトがいる場所は、王宮ではなかった。
町外れの古い図書館。
そこで彼は、一人で本を読んでいた。
ゆみえが入口から中を覗く。
静かな空間だった。
本棚が並び、窓から柔らかな光が差し込んでいる。
その奥に――。
アルベルトがいた。
「……」
やはり、怖い。
昨日遠くから見たときよりも、はっきり顔が見える。
頬には古い傷。
片方の眉の上にも傷跡がある。
鋭く見える目。
整っているとは、とても言えない。
ゆみえの足が止まった。
その瞬間。
アルベルトが顔を上げた。
「……何か用か?」
「あ……」
声まで低い。
ゆみえは思わず一歩下がった。
その瞬間だった。
アルベルトが、少しだけ笑った。
「怖いか?」
「……え?」
「僕の顔が」
図星だった。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
アルベルトは本を閉じた。
「ほとんどの人間がそうだからな」
淡々としていた。
怒っている様子もない。
だからこそ、ゆみえは余計に胸が痛くなった。
「あなたは……アルベルト殿下ですよね」
「そうだ」
「少し、お話してもいいですか?」
「僕と?」
「はい」
アルベルトは不思議そうにゆみえを見る。
「君は僕が誰か知っているのか?」
「第三王子だと」
「それだけ?」
「……それと」
ゆみえは言葉に詰まった。
「みんなが避けていることも」
「なるほど」
アルベルトは立ち上がった。
近くで見ると、思っていたより背が高い。
ゆみえはまた、ほんの少し身構えてしまった。
それを見ていたのか。
アルベルトが言った。
「君も同じだな」
「え?」
「僕を見るとき、最初に顔を見る」
ゆみえの胸が強く締めつけられた。
「……」
「仕方ないさ」
アルベルトは窓の外を見る。
「人間は、目に入ったものから判断する」
「……私も、そうでした」
「過去形か?」
「……」
ゆみえは答えられなかった。
以前の自分なら、アルベルトを見て「怖い」と思っただけだっただろう。
けれど今は違う。
違うはずだった。
なのに――。
最初に見たのは、やっぱり彼の顔だった。
「……私、昔は自分の顔が嫌いでした」
突然、ゆみえは話し始めた。
「太っていて、醜くて。人から笑われることも多くて」
アルベルトは黙って聞いていた。
「だから、ずっと思ってたんです」
ゆみえは自分の手を握る。
「綺麗になれば、人生が変わるって」
「そして?」
「……変わりました」
正直に答えた。
「みんな優しくなりました」
アルベルトの目が少し細くなる。
「以前は誰にも見てもらえなかったのに、今は誰もが私を見るんです」
「それは幸せなことだな」
「……はい」
ゆみえは笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
「でも……最近、分からなくなって」
「何が?」
「みんなが見ているのは、私なのかなって」
静寂。
アルベルトは何も言わなかった。
「私の顔を見てるだけじゃないのかなって」
「……」
「綺麗だから。
若いから。
珍しいから。
だから近づいてくるだけなんじゃないかって」
言葉にすると、胸の奥にあったものが少しずつ形になっていった。
すると――。
「君は、面白いことを言うな」
アルベルトが言った。
「え?」
「君は今、僕に『自分を見てほしい』と言っている」
「……」
「だが」
アルベルトはゆみえを見る。
「君は僕を見ているか?」
心臓が止まりそうになった。
「……」
「僕の顔ではなく」
「……」
「僕自身を」
ゆみえは答えられなかった。
悔しかった。
腹が立った。
でも――。
否定できなかった。
「……分かりません」
やっと、それだけ言った。
アルベルトは頷いた。
「それでいい」
「え?」
「分からないなら、これから知ればいい」
その言葉に、ゆみえは少し驚いた。
「怒らないんですか?」
「何に?」
「私が……あなたの顔を怖いと思ったこと」
「もう慣れた」
「……」
「それに」
アルベルトは少し笑った。
「僕だって、初対面の相手を見た瞬間に、勝手な印象を持つことはある」
「そうなんですか?」
「人間だからな」
その答えが、妙に優しかった。
◇
図書館を出た。
帰り道、ゆみえはずっと考えていた。
私はアルベルトを見ていた。
でも――。
アルベルト自身を見ていたのだろうか。
答えは分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
美しい顔を手に入れた自分は、以前の自分とは違う。
人から見られる側になった。
けれど同時に。
人を見る側にもなった。
「……怖い」
ゆみえは小さく呟いた。
自分が変わってしまったことが。
その夜。
ベッドに横になっても眠れなかった。
目を閉じると、前の世界の自分が浮かぶ。
太った身体。
醜い顔。
誰にも愛されなかった自分。
そして今の自分。
美しい身体。
美しい顔。
誰からも注目される自分。
どちらが本当の自分なのだろう。
そのとき――。
「ゆみえ」
声が聞こえた。
夢なのか。
現実なのか。
分からない。
目の前に、昔の自分が立っていた。
四十九歳の自分。
疲れ切った顔。
悲しそうな目。
その自分が尋ねる。
「ねえ」
「……なに?」
「綺麗になった?」
「……うん」
「幸せになった?」
ゆみえは答えられなかった。
昔の自分が笑う。
悲しい笑顔だった。
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
ゆみえは頬に触れた。
指先が濡れていた。
「……分からない」
「本当に?」
「……分からないよ」
昔の自分は、しばらくゆみえを見つめていた。
そして、最後にこう言った。
「じゃあ、今度はあなたが誰かを見る番だよ」
「……誰かを?」
「うん」
「どうすればいいの?」
昔の自分は答えなかった。
ただ、ゆっくりと消えていった。
◇
翌朝。
ゆみえは町へ向かった。
そして、アルベルトを探した。
昨日とは違う。
今日は、顔を見ないようにした。
声を聞く。
話を聞く。
何を考えているのかを知る。
それから、判断しようと思った。
やがて図書館の前でアルベルトを見つけた。
「殿下」
「ゆみえか」
「昨日の続きを……聞かせてもらえませんか?」
アルベルトは少し驚いた顔をした。
「何を?」
「あなたのことを」
アルベルトは黙った。
そして――。
「……変わった人だな、君は」
「よく言われます」
二人は並んで歩き始めた。
まだ恋ではない。
友情とも呼べない。
ただ、昨日まで知らなかった誰かを、少しずつ知ろうとしている。
それだけだった。
その日の夕方。
ゆみえは一人、湖のほとりに座った。
水面に映る自分の顔。
美しい。
今でもそう思う。
でも、もう以前のように、それだけでは満足できなかった。
「私は……誰に見られたいんだろう」
その答えは、まだ見つからない。
ただ一つだけ。
アルベルトの言葉が、頭から離れなかった。
――君は僕を見ているか?
そして今度は、自分自身に問いかける。
「……私は、ちゃんと誰かを見ている?」
湖面の中の自分は、少しだけ困ったように笑った。
美しい顔だった。
けれど、その奥にいる「ゆみえ」は――。
まだ答えを探していた。




