#34
鏡月の兄である酔月が…紫月山へ向かっている頃。
彼等の父…円月は彫魂神殿にて麒麟の御神体に祈りを捧げていた。
「………………………!?」
「ん…酔月が………向かっている…な。」
「嫌な予感がする。」
「邪悪なる念が…魂が…集まっているような」
「うぅ…む…麒麟の認めし者は…やはり………。」
麒麟の御神体に向かい…手を合わせ、ゆっくりと深く息をつきながら…祈りを捧げ終えると、円月は落ち着いた思慮深い声で独り言ちた。
彫魂神殿には…麒麟の姿を人のかたちにしたものと神獣を模したような御神体の像が二対並んでいた。
ちょうど…その中央に様々な供物が備えられていた。
旬の果実や野菜…それから円月の妻であり、酔月…鏡月…美月の母親である陽子の拵えた立派な膳が並べられている。
そこの祭壇の少し奥まった場所に…うす汚れた古びれた巻き物が一巻漆塗りのお盆のような形状をした台座に大切に置かれていた。
そして…その一巻の巻き物は…螢の光のように淡く、ぼんやりと明滅しているのであった。
「祖父の代より…否、数百年来の歳月を経ても、何の兆候も示さなかった麒麟の書が静かに明滅しているでは無いか。
一体…これから、何が始まるというのだ。」
円月は…控え目に、ほの明るく光る麒麟の書と…何かに呼応するような雰囲気の御神体を食い入るように見つめているばかりであった。
そこへ…兄の事を知らせようと鏡月が駆け付けたのであった。
タッタッタッタッタン…!!
………ガラガラガラッ!!
「ち…父上、ハァハァハァッ………。
兄上が…兄上が…紫月山に向かって、妖魔か…何か言い知れない悪意の塊が感じられる方へと向かっているんです。」
長い樫の木の廊下を駆け足で彫魂神殿へと向かい。
つんのめりそうに…なりながら引き戸の寸前でキュキュ~ッと足音を鳴らして止まると…力強く引き戸を開けると、ハァハァと肩で息をしながら…そう叫んだのだった。
「まず…落ち着け……鏡月よ。
お前もアヤカシの類と戦う事を運命づけられた武士ぞ。
そのように安易に心を乱すようでは勝てる戦いも勝つ事ままならぬぞ。
これは肝に命じておけよ。
ふむ…酔月の事は…私も感じておった。
然るに鏡月よ!!
恐らくは…まもなく前代未聞な災厄が訪れるであろう事は…お前も感じていたと思われる。
そこで…時期尚早なのは察しておるのだが…今から、お前に麒麟の力を授けようと思うのだ。」
真摯な瞳で…鏡月を真っすぐに見つめて、円月が語り掛けると………。
「わ…私などには無理です。
このような時に…何故です…父上。
その力は…麒麟の力は…兄上が…兄上こそが受け継ぐべきなのでは無かったのですか?」
ハッと…目を丸くしながら驚いた様子で鏡月は不本意ながら…早くも心を乱される事となった。
「麒麟の力が………
鏡月…お前を呼んでいるのだ。
感じるのだ…麒麟の魂の声を!!」
父に肩を掴まれ…情熱的にそう言われても…鏡月の心を動かす事は出来なかったのだ。
何故ならば…父と同じくらい、否、それ以上に兄に対する尊敬の念があったからだ。
その想いは…麒麟という聞き慣れない神様の崇拝の念を遥かに凌駕するものであった。
「兄上よりも…全てにおいて劣る愚弟な私が何故です………何故なのです。
お教え下さい…父上ッ!!」
父の真意が見えずに不安になる鏡月。
「…ん………気付かぬか?
麒麟様は…お前の中に未知数なる無限の可能性を感じられたのだ。」
父の口から唐突に発っせられた言葉は…鏡月にとってはとても意外なものであった。
「私は…私には…多少、人よりも優れた霊感や霊力があるだけで…父上や兄上には当に及びません。
強いて…あげるのならば、弱小な弓道部の主将を二年にして任されたくらいで…それ以外はこれといって、特に………。」
鏡月にとって酔月は大きな存在感であり…尊敬を超えた憧れでもあったのだ。
そんな鏡月が自分の事を過小評価し過ぎてしまうのも無理からぬ話ではなかった。
鏡月は…とてもでは無いが自分の力では麒麟などという計り知れない神の力を御しきれないと思い…不安気な声でそう語った。
鏡月を見つめているかのような麒麟の像の睫毛に悲しさと淋しさが憩うのであった………。
鏡月の心には…果たして、兄が無事なのかと…麒麟の力よりも、その事が何よりも気掛かりであった。
何故か…いつもよりも恐ろしいくらいに空気が冷たく感じられた。
時計の針は…五時半を指し示そうとしていた。




