エピソード9 見栄のスクロールと、美少年の危機
翌朝。バスタブの中で小さくなって眠っていたカノープスは、脱衣所のドアが静かに開く微かな気配でパッと目を覚ました。
「おはよう、カノープス君!」
バスタブを覗き込んできたミラが、弾んだ声で挨拶を投げかけてくる。
チャーミングなお姉さんに声をかけられて目覚める朝。陽当たりの良いバルコニーからは眩い朝日が差し込み、窓の外には美しく手入れされた迎賓館の広大な庭園が広がっている。
最高に優雅で、上々の目覚めと言っていいだろう。――本日の任務さえ無ければ。
しばらくすると、部屋にノックの音が響き、上品な帝国メイドたちが手際よくテーブルに朝食を並べていった。
香ばしい焼きたてのパンに、湯気を立てる温かなスープ。瑞々しい新鮮な野菜のサラダとフルーツ。絶妙な火加減の卵料理に、高級なチーズやハム。そして目の前には、まだガウン姿のままの綺麗なミラの笑顔。
最高だろう。本当に、今日の任務さえ無ければ。
カノープスは席につくと、懐から一枚のスクロールを取り出してテーブルの上に広げた。
「――『ファインド・イービル(邪悪探知)』!」
主にプリースト(聖職者)系が使用する、薬物や毒物、あるいは隠された罠を探索するための探知呪文だ。淡い光が料理を包み込み、すぐに消える。どうやら朝食に邪悪な混ざり物(毒)は入っていないようだ。
それを見たミラは、おかしそうに目を細めた。
「ふふ、さすが用心深いのね。じゃあ、私もスクロールを使わせてもらうわ」
ミラもまた、懐から慣れた手つきで巻物を取り出し、キーワードを唱える。
「――『サウンド・インシュレイション(防音結界)』」
部屋の中に、再び外部の音を遮断する透明な膜が張られた。
「この防音結界のスクロール、上の人からは『貴重だから節約しろ』ってうるさく言われているんだけどね。私はカノープス君との内緒の会話を楽しみたいから、使っちゃった。ちょっとだけ感謝して欲しいな?」
(……実は、僕も上層部から邪悪探知のスクロールを節約しろって言われてるんだよね)
カノープスは内心で苦笑した。
実際のところ、歴戦の隠密であるカノープスは、世に出回る危険性のあるほぼ全ての薬物や毒物の匂いを完全に記憶している。呪文に頼らずとも、自慢の鋭い嗅覚だけで毒の有無を嗅ぎ分けることは容易だった。だが、この素敵なレディーの前で、料理に鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅ぐのは、男としてあまりにもスマートではない。
カノープスは、密かな見栄を張るために貴重なスクロールを消費したのだった。
ミラは焼きたてのパンを小さくちぎりながら、本題を切り出した。
「さて、カノープス君。君は今日、分刻みのスケジュールで大忙しよね」
「まずは午前11時からの、レグルス皇帝陛下への公式謁見だ」
「カノープス君にとってはただ頭を下げてるだけだし、さほど問題は無いと思うけど……。最近、皇帝陣営の裏でかなり活発な動きがあるの。一応、警戒だけはしておいてね。……そして、大本命は16時からの『皇后様』との個別謁見よ。貴方のお父さんの腕の見せどころね!」
ミラはそこまで言うと、悪戯っぽく声を潜めた。
「知っているかもしれないけど、皇后様は帝国でも有数の『アークウィザード(大魔導士)』よ。しかも、かなりの面食いでね……気に入った美少年を見ると、自分の寝室に呼んじゃったりすることもあるのよ? ――ねえ、カノープス君は、自分が美少年の部類に入ると思う?」
「……まさか。僕は至って普通の、パッとしない男だよ」
カノープスが真面目に答えると、ミラはクスクスと楽しそうに笑った。
「私は、君は十分可愛い顔をしてると思うけどね。でも、本当に気をつけてね、美少年カノープス君」
ミラの軽口を適当に受け流しつつ、カノープスの背中を冷たい汗が伝った。
問題なのは美少年云々ではなく、皇后が「帝国有数のアークウィザード」という点だ。前皇帝と婚姻する前、彼女は帝国に仇なす凶悪なレジスタンスの一党を、たった一人で文字通り無力化・壊滅させたという恐るべき逸話を持っている。その胆力、実力は計り知れない。
ハニートラップ用の『コイイモリ』を懐に忍ばせて挑むには、あまりにも手強い相手だ。
「そして、18時からは公式の晩餐会があって……」
ミラは朝食の仕上げのミルクを飲み干すと、最高の笑顔でウィンクをしてみせた。
「――そしてラストは、約束のこのミラさんとの『ミッションデート』よ! 特権寺院のあの場所に、午前3時に集合ね。レディーを待たせないでね!」
(ミッションデート……? そんな単語、忍者の教科書のどこにも載ってないぞ……)
困惑しつつも、カノープスの視線は、身を乗り出したミラのガウンの胸元へと、吸い寄せられるように一瞬だけ向いてしまった。
(ふーん……。僕は、十分可愛い顔をしてる、か……)
スープをスプーンで掬いながら、カノープスの脳裏に、昨夜の激しい後悔が再び鎌首をもたげた。
(……待てよ。やっぱり昨日、添い寝の誘いに乗っていけたんじゃないか…?むしろ隠密としての情報収集の一環として、行くべきだったのでは……?)
(いやいやいや! 何を考えてるんだカノープス!! 任務に集中しろ!!)
頭の中で必死にバケツの水をかぶりながらも、若き天才隠密は、どこまでも未練たらたらな煩悩を抱えたまま、激動の一日を迎えることになるのだった。
いよいよ激動の一日が始まります。盛りだくさんです。
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