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スピンオフ 忍者エージェントカノープス 賢者の書の秘密  作者: クワトロばなな


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エピソード8 不殺のポリシーと、バスタブの眠り

帝都の夜風を切りながら、カノープスの脳内では未だに煩悩の暴走が続いていた。

(……いや、待て。よく考えろ。彼女が本当に命を預けるに足りる相手かどうか、肌を合わせて確認しておくべきだったのでは……。いやいやいや! 何を考えてるんだ俺は! ――それとも、最悪死ぬかもしれない任務の前に、男として一度くらいはそういう経験を……。いやいやいや! 違ーーうっ!!)

頭を左右に激しく振る。そうして煩悩と理性のせめぎ合いに没頭しているうちに、気がつけば目的地である特権寺院のすぐ近くまで到着してしまっていた。

(……しまった。雑念に気を取られて、ここへ来るまでの経路の細部をロクに確認していなかった。帰りにきっちり確認し直そう。隠密失格だな、まったく……)

己の未熟さに小さく舌を打ち、カノープスは一瞬でプロの隠密の顔に戻った。

特権寺院を囲む重厚な外堀の影に潜み、まずはミラが提示した侵入経路を慎重に目視で確認していく。敵の罠(トラップ)が仕掛けられそうなポイント、伏兵を潜ませるのにうってつけの死角を重点的に精査した。

続けて、ミルキーウェールズ王国の諜報機関が事前に調べていた独自の侵入経路とも見比べる。

確かに、ミラの提示したルートの方が圧倒的に効率が良く、警備の隙を突いていた。だが――カノープスが当日のルートとして選んだのは、あえて効率の悪い『ミルキーウェールズ側のルート』だった。

どれほど魅力的な提案をされようと、どれほど有能に見えようと、相手は帝国のくノ一だ。己の生死の与奪権をすべてミラに委ねるわけにはいかない。不測の事態に備え、現時点で自分にできる備えはすべてやっておくべきだ。

カノープスはそのまま、午前3時の決行時間に合わせた衛兵の正確な配置、移動パターン、交代のタイミングなどをじっくりと時間をかけて網羅していった。

「よし、これくらいか……」

一通りの調査を終え、彼は来た道を戻り始めた。復路ではしっかりと経路の細部を頭に叩き込み、周囲を警戒しながら、同時に「いざという時」の最悪のシミュレーションを脳内で行っていた。

(もし、あのミラの計画がすべて罠で、外交団や我が国に壊滅的な被害が及ぶと判断した場合……。俺は一切の証拠を消し去り、即座に撤退しなければならない。――その時は、彼女を……)

その思考が行き着いた瞬間、カノープスの胸に冷たい重圧がのしかかった。

カノープスはこれまで、若くして数々の過酷な極秘任務を経験し、それを成功させてきた。だが、実はその生涯において、ただの一度も「人の命をあやめたこと」がなかった。

この泰平の世において、幸いにもそこまで血生臭い任務自体がなかったこともある。しかし何より、彼の緻密な計画、完璧な事前準備、そしてそれを実行に移す圧倒的な技術が、そもそも「敵を殺害する必要性」を生じさせなかったのだ。

相手を殺さずに、出し抜いて勝つ。

カノープスは、たとえこの先世界がひっくり返るような大激変が起きようとも、この自分自身のポリシーだけは絶対に曲げたくなかった。

音もなく迎賓館の部屋の窓から滑り込み、防音結界が維持された室内へと戻る。

ベットを見ると、ミラは豪胆な性格ゆえか、あるいは先ほどカノープスを相手に喋り疲れてしまったのか、微かな寝息を立ててすやすやと眠りについていた。

カノープスは足音を消したまま歩み寄り、まだあどけなさが多分に残るミラの寝顔を、静かに見つめた。

国の利益のため。仲間のため。家族のため。

そんな、いくらでも用意できる大義名分を盾にして、目の前で無防備に眠るこの少女の命を奪うことなど、自分には到底できそうにない。

(……すっかり、情にほだされてしまったのかもしれないな)

自嘲気味に、カノープスは小さく息を吐いた。

自分は忍者として、誰にも負けない優秀な技能を持っている自負はある。だが、どこまでいっても、本当の意味での「非情」になりきることだけはできない。冷酷な道具にはなれない。それが、カノープス・チュワートスという人間なのだ。

なら、答えは一つだ。

この甘くて青臭いポリシーを、誰にも文句を言わせずに生涯守り通すために――自分はもっと、今の何倍も、何十倍も賢く、そして強くならなければならない。

少女の寝顔にそう誓うように目を細めると、カノープスはそっと彼女から視線を外した。

さすがに同じベッドやソファーで眠るわけにはいかない。かといって地べたに寝るのも隠密の体が鈍る。

カノープスは静かにバスルームのドアを開けると、水気の切れた滑らかなバスタブの中に身体を滑り込ませた。狭く固い空間だが、忍びにとってはこれくらいが丁度いい。

ガウンの襟元を正し、カノープスはゆっくりと瞼を閉じた。

嵐の前の静けさのような帝国の夜。決行の午前3時に向けて、若き天才隠密は、束の間の深い眠りへと落ちていった。

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