エピソード10 若き皇帝の威光
午前10時30分。ミルキーウェールズ王国の紋章が刻まれた重厚な馬車が、迎賓館の正面玄関に滑り込んできた。
新皇帝レグルス陛下への公式拝謁へ向かうため、礼服に身を包んだカノープスと、その父親であり使節団の長を務めるゼダル・チュワートスは揃って馬車へと乗り込んだ。ちなみに、監視役(建前は護衛)であるミラとセーラの二人は、さすがに別便の馬車へと案内されている。
馬車が揺れ始めると同時に、親子は事前の予定通り、一切の声を出さずに唇の動きだけで会話を行う『読唇術』での最終作戦会議を開始した。
カノープスはまず、最大の変更点について唇を動かす。
『――父上。重大な事実が発覚しました。【賢者の書】の閲覧には、ロックの解除だけでなく「特殊な暗号」の入力が必要です』
ゼダルの眉がピクリと跳ねる。カノープスは続けて、
『暗号に関しては、僕の方でなんとかルートを確保しました。ですので、プランBの強行作戦の際も問題はありません』
とだけ伝えた。
情報源が「ミラ」であることは、あえて完全に伏せておいた。もしここでミラの名前を出せば、国家の安全を最優先する父や王国の別のエージェントの手によって、彼女に拷問や暗殺といった容赦のない危害が加えられる恐れがあったからだ。あの無防備な寝顔を思い出すと、どうしてもそれだけは避けたかった。
ゼダルは息子の報告に深く頷くと、手元で細かく指を動かし、暗号の事実関係の裏を取るべく本国の部下たちへ秘密裏に通信の指示を出した。
一通りの対応を終えたカノープスは、昨晩自分が特権寺院へ潜入して調べ上げた衛兵の配置、交代時間、罠の警戒ポイントなどを事細かに伝達した。そして、最後にこう締めくくった。
『僕からの報告は以上です。それでは父上、そちらが昨晩掴んだ帝国上層部の最新情報を共有してください』
その瞬間だった。
『――えっ?』
ゼダルが短く、本当にマヌケな形に唇を動かした。その顔に、明らかに冷や汗が伝うのをカノープスは見逃さなかった。
(……はい?)
カノープスの瞳から光が消える。彼は怒りを極限まで抑え込み、般若のような形相で父親の唇を凝視しながら、猛烈なスピードで読唇術の問いを叩きつけた。
『パ・パ・は・昨・日・の・一・晩・何・を・し・て・た・の・か・な・ぁ・?』
『あ、いや、あのー、その……なんだ。帝国のくノ一というのは、想像以上に優秀だな! 致命的なまでに監視の隙が全く無くて、その、部屋から一歩も抜け出すことができなかったというか……ね?』
ゼダルは視線を泳がせながら、苦し紛れに唇をモゴモゴと動かした。
(思いっきりハニートラップに引っかかってんじゃねえよこのポンコツ親父がああぁぁぁぁぁぁーーっっっ!!!)
胸中で怒りのドロップキックを叩き込みつつ、カノープスは心の底から呆れ果ててフイッとそっぽを向いた。
隠密の世界において、そっぽを向かれるということは「読唇術による会話の強制終了」を意味する。
これ以上の言い訳が通用しないと悟ったゼダルは、ついに観念したのか、馬車の騒音に紛れさせて気まずそうに、ボソボソと「肉声」でとぼけた質問を口にした。
「……あのー、カノープス君。その、何だ。……お前、ゆうべ、大人の『男』になったか?」
「知るかーーーっ!! ボケェーーーっ!!」
カノープスは我慢の限界を迎え、馬車が揺れるほどの特大の声で実の父親に全力のツッコミをぶちかました。
御者台の御者が一瞬ビクッと手綱を引いた気配がしたが、もはや知ったことではなかった。
そんな親子喧嘩を繰り広げているうちに、馬車はいつの間にかロメーダ帝国の本丸である、巨大な城門をくぐり抜けていた。
国の最高中枢――『アルメキオン本丸』。
天を突くほどにそびえ立つ重厚な黒石造りの城塞は、ただそこにあるだけで、訪れる外交官や他国の使節を圧倒するほどの強烈な威圧感を放っている。
すぐに厳か極まりない「謁見の広間」へと通された。
絢爛豪華でありながらも、どこか血の匂いが漂うような冷徹な美しさを持つ広大な空間。カノープスとゼダルは、赤絨毯の上に深く平伏し、微動だにせずロメーダ帝国の絶対権力者が現れるのを待った。
静寂の中、重々しい靴音が響き渡る。
やがて、豪奢な玉座に腰掛けた人物から、若々しくも信じられないほどの覇気を孕んだ、鋭い声が発せられた。
「――余が第24代ロメーダ帝国皇帝、レグルスである」
その声の主こそ、我が国のシリウス殿下と同年齢の若さにして、「天才」「俊英」の名をほしいままにする帝国の若き獅子。
平伏したまま、カノープスはごくりと唾を飲み込んだ。ついに大陸の歴史を動かす巨大な渦の中心へと、二人は足を踏み入れたという実感が彼の身体を強張らせた。
レグルスとは一体どんな皇帝なのか?
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