エピソード4 沈黙の親子喧嘩(サイレント・バトル)
国境の忍者ギルドに滞在することしばらく。カノープスは、父親が極秘裏に宿へよこした道案内の指示に従い、ついに指定された合流地点へと向かった。
待ち受けていたのは、王国の威信をかけた、馬揃えもきらびやかで豪華絢爛な外交旅団であった。表向きは「ロメーダ帝国の新皇帝即位に伴う親善外交団」。その中に配置された、一際大きく豪奢な最高級馬車の扉を開け、カノープスは中へと滑り込んだ。
ふかふかとした柔らかな高級座席の上で、一人の男が優雅に寛いでいた。王国の諜報機関の頂点に返り咲いた男にして、カノープスの実父、チュワートス卿である。
父親は、外交用の正装とかつらで身を包んだカノープスを見るなり、柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
「元気そうだな、カノープス」
「父上もお変わりなく、何よりです」
慇懃に、絵に描いたような模範的な息子の態度で返すカノープス。すると父親は、満足げに何度も頷きながら、これ以上ないほど嬉しそうな声で言った。
「いやあ、お前は普段、学園では究極に地味な格好をして目立たないようにしているが、こうしてしっかり身なりを整えると、中々の美男子じゃないか! 流石は俺の息子だ!」
(……出たよ、この底なしの親バカめ)
かつて息子の才能を周囲に自慢しすぎて二階級降格した男の悪癖は、最高職に返り咲いても1ミリも治っていなかった。父親はカノープスの冷ややかな視線に気づく風もなく、「たまにはこういう表の任務も、目の保養になっていいだろう?」と軽口を叩いてみせる。
その言葉に、カノープスはピキリと青筋を立てた。
声は一切出さず、ただ唇の動きだけを高速で紡ぐ、隠密特有の『読唇術』による猛烈なツッコミを父親へと叩きつける。
『――これ、ガチの裏任務だろ!! どこが表の任務だボケ親父!!』
普通の人間なら見落とすほどの微細な唇の動き。だが、さすがは最高職の男、父親はそれを見事に読み取ると、ふっと表情を引き締めた。ここからは、外に一切の音を漏らさない「完全なるサイレント(読唇術)会議」の始まりである。
『本題に入ろう』
父親の唇が冷徹な隠密の動きへと変わる。二人は今回のスパイミッションの要点と、詳細なフェーズを脳内で素早く擦り合わせていった。
主な議題は、帝国の寺院から『賢者の書』の極秘情報を盗み出した「後」のことについてだった。
何らかの形で父と子が情報を共有した後、その国家機密を確実に祖国へと持ち帰るため、二人はあえて「二手に別れて」国境を超える計画を立てた。
一方は、正規の外交旅団のルートで堂々と国境を通過する。ルートA
もう一方は、最短最速の隠密ルートで、単独で険しい国境の山並みを飛び越える。ルートB
当然、帝国側の追撃や警戒が予想されるため、父親の乗る正規ルートの馬車にはカノープスの『影武者』を立て、大々的に囮として敵の目を引きつける。そして、本物の情報を懐に抱え、最短ルートで命がけの国境越えに挑む実務担当は――他ならぬカノープス自身が引き受けることとなった。
読唇術による一通りの作戦確認を終えた後、カノープスはすっと目を細め、個人的な怨恨を込めて唇を動かした。
『父上に、一つ断固として申し上げたい事がございます』
『なんだ?』
『……生徒会室でシリウス殿下と共に読まされた、あの母上の手紙のことです。二度と、あのような恥ずかしい形で実母からの私信を作戦の炙り出しに使用するのはやめていただきたい!! 死ぬかと思いました!!』
カノープスの悲痛な訴えに、父親はどこ吹く風といった様子で、とぼけたように唇を動かす。
『あー、あれな。お前が任務に就くと知った母さんが、「どうしてもカノープスに便りを出したい」と駄々をこねるから、ついでに裏に暗号を仕込んだだけだ』
『あんたらバカなの!? 国家最高機密の裏に実母の過保護なお説教を仕込む奴があるか!!』
カノープスが本気で怒ると、父親もまたムキになったように唇のスピードを上げた。
『おい、俺への文句はともかく、母さんの悪口を言うな! 母さんはピュアなんだぞ!この泣き虫息子が!』
『頭にきた!! もうハニートラップ(コイイモリ)作戦はやらんからな!! 歳の離れた皇后の籠絡なんて、お前が自分でやれクソオヤジ!!』
『なんだと!? 言うことを聞かない悪い子には、お前が昔やらかした数々の恥ずかしい幼児期のエピソードを、メレンヘア学園の生徒会中にばら撒いてやるからな!』
『そんなもん、あるわけないだろ!!』
カノープスが猛反論すると、父親の唇は、最凶の脅迫を形作った。
『――ほう。じゃあ、お前が5歳の頃、母さんの誕生日に手作りして贈った、あの「お母さん大好きラブラブ自作ソング」の歌詞カードを、メレンヘア学園の全校生徒にバラ回してもいいんだな!?』
「ッ……!?!?!?」
カノープスは顔面を沸騰したように真っ赤に染め、声にならない絶叫をあげた。それだけは絶対に駄目だ。もしそんなものが生徒会、引いてはルスカや、同級生や忍者の仲間の耳にでも入ってみろ。俺の学園生活は尊厳ごと消滅する。
カノープスはこれ以上ないほど激しい唇の動きで、怒りの限界突破を見せた。
『それやったら!! ぜってー親子の縁切るからな!!!!』
声が一切出ない、しかし車内の空気が激しく震えるほどの凄絶な忍者の親子ゲンカは、馬車がロメーダ帝国の国境検問所に近づくまで、延々と繰り広げられた。
やがて、検問所の灯りが見え始め、旅団の速度が落ちる。
一通りの凄まじい「サイレント親子ゲンカ」を終え、ゼェゼェと肩で息をするカノープスに対し、父親はふっと憑き物が落ちたような、どこまでも静かで、そして深い慈愛に満ちた瞳を息子に向けた。
父親は、窓の外の帝国領を見つめながら、声なき唇を、ただ一言だけ、優しく動かした。
『――お前を、一人で死なせたりはしない』
父親の唇が、先ほどまでのふざけた調子とは打って変わり、酷く真剣な動きをした。
驚いてカノープスが視線を戻したときには、父親はすでにいつもの、能天気で、どこか頼りない「表の外交官」の顔に戻って微笑んでいた。
どれほど親バカで無茶振りをしてこようとも、この男は王国の影の頂点。
その一言に込められた、命を賭してでも息子を守るという父親の、そして一流の隠密としての絶対的な覚悟。カノープスは胸の奥が熱くなるのを堪えながら、ただ黙って、迫りくる帝国の空を見据えた。
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