エピソード3 暗号とコイイモリ
学園の温かい光を背に、カノープスは影となってひた走った。幾日か走り続け、国境の峻険な山並みが近づく頃、彼は街道沿いにぽつんと佇む、薄汚れた宿屋兼酒場に立ち寄った。
一見すると荒くれ者の旅人や商人が集うだけの寂れた店だが、その実態はミルキーウェールズ王国が各地に配置している極秘の『忍者ギルド』である。
国家規模の隠密任務を帯びた者は、任地へ赴く前に指定されたギルドへ立ち寄り、最新の情報、作戦の詳細、そして長旅に必要な特殊支給品を受け取るのが絶対の鉄則であった。
夜の喧騒に紛れ、カノープスはカウンターの奥にいる初老の店主に近づき、感情の乗らない声で話しかけた。
「――うさぎを手に入れたんだが、必要ないか?」
店主はグラスを拭く手を止めず、値踏みするような鋭い視線を一瞬だけ少年に向けた。
「あいにく、うさぎは間に合っている。他に見るべきものは無いか?」
「蛇なら、ある」
カノープスの返答を聞いた瞬間、店主の纏う空気がわずかに変わった。合言葉の成立である。
「……ちょうど良かった。新鮮な鱗は歓迎する。奥の部屋へ入ってくれ」
店主は顎で店の最奥にある扉を指し示した。カノープスが音もなく扉を開けて中に入ると、そこは薄暗い調度品だけが置かれた密室だった。
部屋の中央には、驚くほど特徴の無い、一度見たら二度と顔を思い出せないような中年の男が静かに腰掛けていた。彼こそが、この国境地帯の情報を統べる王国の凄腕密偵である。
男はカノープスが椅子に座ったのを確認すると、一切の声を発声させず、ただ唇だけを高速かつ精密に動かして話を始めた。壁に耳を当てられても絶対に情報が漏れない、極限の暗号通信。カノープスは一瞬たりとも瞬きをせず、その動きから『読唇術』で内容を瞬時に読み取っていく。
『――ロメーダ帝国は、前皇帝が崩御したばかりで極めて不安定な状況にある。現在の実権を握っているのは、前皇帝の正妃であった「皇后」だ。我が国のシリウス殿下と同年の新皇帝「レグルス」は、天才、俊英と名高いが、未だ宮廷内の地盤が弱く、実権を掌握しきれておらずにいる』
カノープスは視線だけで男に先を促す。
『我らが追う【賢者の書】は、現在その皇后の厳重な管理下にあり、彼女の膝元にある帝都の特権寺院に保管されている。……そして、最大の問題はここからだ。賢者の書は、特殊な魔導保管ケースの中に収められている。そのロックレベルは推定「5」。開錠するには、国内最高峰の技能である「アンロックスキル・レベル5」が必要不可欠だ』
男の唇が紡いだその言葉に、カノープスの脳裏に少しばかり苦い記憶が蘇った。
何を隠そう、カノープスはその『アンロックスキル・レベル5』を、僅か10歳の時点で完全習得していたのである。本来ならば、国家の最高機密としてチュワートス家の家門内、あるいは諜報機関の幹部内だけで厳重に秘匿しておくべき、天才隠密の誕生の事実。
だが――あまりの嬉しさに理性を失った親バカの父親が、「うちの息子は天才なんだよ! 10歳でレベル5を開けやがった!」と酒の席などで嬉々として吹聴し、国中に言い触らしてしまったのだ。
忍者は目立ってはならない。それが絶対の鉄則である。なのに、である。
父親のせいで「国家最高峰の開錠能力を持つ天才少年」の噂が国中に爆発的に広まってしまった。
事態を重く見た諜報機関は、必死の情報操作を敢行。結果、「天才少年は国外の組織に誘拐され、現在は行方不明」という偽のシナリオをでっち上げる羽目になった。当然、「カノープス」という名も本名ではない。彼は戸籍から何から全てを抹消され、別人に作り替えられたのだ。
お父様はこの大やらかしの責任を取らされ、当然のごとく二階級の降格処分という重い罰を受けることになった(その後、実力で最高職に返り咲いたのは流石だが)。
カノープスが現在、学園で「パッとしない、究極に地味な隠れキリギリス」として必死に気配を消して過ごしているのは、この時の父親の親バカを隠蔽するための、国家的な戸籍偽装の結果でもあったのだ。
しかし同時に、それはこの任務が自分にしかこなせないという証明でもあった。現在、ミルキーウェールズ国内でアンロックスキル・レベル5を保持しているのは、降格から這い上がった父親と、カノープス本人の僅か二人しか存在しない。つまり、この国境を越えるスパイミッションは、自分たち親子以外には物理的にあり得ないということだ。
男の唇が最後の指示を動かす。
『作戦の内容は、表向きの外交官として任命された父君が、嫡男である君――カノープスを外交団に同行させ、正規の手続きで一緒に入国する。そして宮廷にて「我が息子です」と皇后に紹介する名目で面会し、その中で内容を聞き出すプランA。それが不可能。または成果が基準を下回る場合、面会終了後、君が単独で寺院に潜入し、そのレベル5のロックを破って直接内容を掴む。それがプランB。そのために、父君が乗る外交団の馬車がここに到着するまで、君はここで待機せよ』
ミルキーウェールズ王国国家を挙げての偽装潜入作戦。作戦の全容を読み終えたカノープスは、男から手渡された今回の任務の必要品を確認した。
袋に入っていたのは、帝国宮廷に上がるための高級な外交用正装。そして、死んだはずの天才少年の顔をさらに誤魔化すための、精巧な変装用のかつら。
――そして、その奥底に、厳重に包まれた小さな紙包みがあった。
カノープスはそれを手に取った瞬間、常人ならざる忍者の嗅覚によって、紙包みからわずかに漏れ出る微かな、しかし独特の生臭さと甘さが混ざり合った香りを察知した。その瞬間、彼の背筋に冷たい戦慄が走る。
(……父上は、私にこれを使えというのか……!?)
それは、学園の忍者訓練施設の悪友たちが、悪ノリやおもしろ半分でよく話題にしている、あの忌まわしき魔法生物の粉末――惚れ薬『コイイモリ』だった。
恋愛経験もロクにない、学園でも普段は全くパッとしない(ことになっている)地味な一学生である自分に、年の離れた、しかも大陸最凶の帝国の最高権力者である「皇后」を相手にハニートラップを仕掛けろというのか。
最高職に返り咲くほどの超一流の隠密であり、自分のせいで息子を「行方不明の死人扱い」にする羽目になったというのに、その息子への無茶振りのスケールは今なお最高峰である実の父親。
カノープスは心の中で激しく頭を抱えながら、白目を剥きそうになるのを必死で堪えた。
(お父様……。いくら何でも無茶振りなんですけど!?)




