エピソード25『10歳の伝説と、黎明の読唇術(メッセージ)』
防音結界の中で、カノープスとミラは朝の光の中でしばらく言葉を交わし続けた。
彼女の話によれば、大国ロメーダ帝国の誇る諜報部でさえ、ミルキーウェールズの『天才隠密カノープス』の正確な情報は未だに掴めていないのだという。
「じゃあ、どうしてミラさんは僕の正体を……?」
カノープスが尋ねると、ミラはくすくすと笑いながら、驚くべき事実を明かした。
実は、カノープスの存在を正確に把握していたのは、彼女の本当の祖国である『ソビヤ王国』の諜報部だったのだ。
難攻不落の鍵を開ける最高峰の技術『アンロックスキル・レベル5』の取得者を一人も持っていなかったソビヤ王国は、その稀代の才能を持つ天才少年の身柄を確保しようと血眼になっていた。そして今から数年前、当時わずか10歳だったカノープスを拉致するため、ソビヤが誇るトップエージェント2名をミルキーウェールズへ派遣するという、極秘の誘拐作戦が決行されたのである。
しかし、結果は惨敗だった。
ソビヤの精鋭スパイ2名は、弱冠10歳の少年にいいように出し抜かれ、全力を尽くした罠も、張り巡らせた追跡網もすべて木っ端微塵に翻弄されまくった。最終的に彼らは祖国へ、一枚の報告書を提出することになる。
――『天才少年カノープスの確保は、ミッション・インポッシブル(不可能です)』と。
「あの時のエージェントたち、本気で泣いてたんだからね?」
「あはは……あの時は僕も必死だったから」
そんな伝説を持つ少年の名前が、今回のミルキーウェールズ外交官リストの中に紛れ込んでいるのを見つけたミラ。彼女が並み居る帝国の隠密たちを押し退け、自ら志願してカノープスの監視役(護衛)を引き受けたのは、当然の成り行きだったというわけだ。しかし帝国の諜報機関でも未成年のハニートラップは禁止されており、本当は警戒しながらの隣の部屋で待機でよかったらしい。ではなんで僕の部屋でお泊まりを?
そんな過去の裏話から始まり、今回の潜入任務におけるお互いの動きをあれこれと自画自賛し合うような、他愛のない、けれど愛おしい会話を重ねていく。気がつけば、非情な隠密の世界を忘れさせるほどとめどない時間が流れ、ついにロメーダ帝国を出発する刻限が訪れた。
朝の清冽な空気が満ちる中、ミルキーウェールズの紋章が入った豪華な馬車が、迎賓館の車寄せへと静かに滑り込んでくる。
カノープスは手早く荷物をまとめると、ミラと共に迎賓館の豪奢なロビーを抜け、車寄せで待つ馬車へと向かった。
馬車の重厚な扉の前で、ミラが足を止める。彼女はいつも通りの爽やかな笑顔を浮かべ、カノープスを振り返った。
「――私の、あなたの護衛(監視)はここまでよ、カノープス君」
「ええ。色々と……本当にありがとうございました、ミラさん」
カノープスが慇懃に一礼した、その時だった。
ミラはスッと自分の口元に両手を当てた。そして、周囲の衛兵や御者からは死角になる、カノープスからしか絶対に見えない絶妙な角度を作ると、唇だけを素早く、滑らかに動かしたのだ。
『――ソ・イ・ネ・ノ・ツ・ヅ・キ・ハ・マ・タ・コ・ン・ド』
「っっ――!?」
脳裏に直接叩き込まれた、文字通りの『密語』。
夕べのベッドでの妖艶なやり取り、そして「友達以上」という言葉がフラッシュバックし、カノープスの顔は一瞬にして沸騰したかのように真っ赤に染まった。
動揺を隠せないカノープスの姿を見て、ミラはいたずらっ子のような大好きな笑顔を咲かせると、小さく手を振った。
「カノープス君、またね!」
「は、はい……ま、また今度……っ」
天才隠密の名が泣くような、あまりにも間抜けな返答を返すのが精一杯だった。
熱くなった頭を冷まそうと、先に馬車の前へ向かっていた父親のゼダルへと視線を移す。するとそこには、ロメーダ側の監視役であったセーラさんの両手をがっちりと握り締め、大粒の涙を流しながら本気で別れを惜しんでいる最高司令官の姿があった。
(ハニートラップで一体どれだけ骨抜きにされてるんだよ、あの親父は……ッ!)
あまりの情けなさに心の中で盛大なツッコミを入れるカノープス。だが、隣で可憐に笑顔を浮かべ、ずっと自分を見送ってくれているミラへと視線を戻した瞬間、フッと自嘲気味に息を吐き出した。
(いや……人のことを言えた義理じゃないな、僕も)
彼女がくれた、二重スパイとしての本物の誠実さと、あの甘い悪戯。カノープス自身もまた、彼女のハニートラップならぬ『ハートトラップ』に、とっくに完膚なきまで籠絡されている自覚があったからだ。
セーラやミラ、そして迎賓館の使用人たちに笑顔で見送られながら、ミルキーウェールズ王国使節団の馬車は、ゆっくりと車寄せを離れていく。
窓の外へと遠ざかっていくミラの山吹色の髪を見つめながら、カノープスは祖国へ持ち帰るべき、世界を揺るがす『第115項』の重大な予言を、静かにその胸に抱き締めるのだった。
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