エピソード24 防音結界の向こう側、ミラの誇り
密閉された防音結界の空間。朝日に照らされたミラの瞳は、いつもの軽薄な仮面を脱ぎ捨て、どこまでも澄んでいた。
「――何から話そうかなぁ、カノープス君」
ミラはふっと視線を落とし、小さく息を吐いた。窓の外、彼女が放った白い伝書鳩は、すでに朝焼けの空へと溶けるように消えている。
「今日、私たちは特権寺院の最奥で、本物の『賢者の書』を一緒に見たよね。その中の一文――『ep.114:ソビヤ西海岸部に大地震と津波が発生する』。……カノープス君、あの時、ロメーダ帝国が何をしたか知っている?」
カノープスは無言でミラの言葉を待った。彼女の声音には、隠しきれない静かな怒りと悲しみが混じっていた。
「あの時もね、帝国は自国の利益と混乱を避けるために、情報の公表を極限まで遅らせたのよ。そのせいで、事前に避難することができなかったソビヤ王国は、弁解の余地もないほどの壊滅的な大被害を受けたわ。……あまりの被害の凄惨さに、後から事実を知った世界中の国々から、帝国は激しい非難を浴びることになった。――そんな悲劇、二度とあってはならないのよ」
ソビヤ王国。
それは、カノープスの祖国ミルキーウェールズ王国とはちょうど反対側、大陸の西側に位置する小さな国家だ。大国レーシアと超大国ロメーダ帝国という二つの巨頭に上下を挟まれ、外交面においては常に薄氷を踏むような、非常に苦労の絶えない小国として知られている。
ミラは真っ直ぐにカノープスを見つめ、意を決したように唇を動かした。
「私はね、ソビヤ王国にローツーをもつ、ロメーダ帝国で育った――『二重スパイ』よ」
彼女の口から語られたのは、あまりにも危険な衝撃の事実だった。カノープスは思わず息を呑み、言葉を失う。
「私は物心がつく前から帝国の学園に通わされて、くノ一としての技術を叩き込まれた。ずっと、帝国の利益のために影として働いてきたわ。だけどある日突然、父親から私の本当のルーツを聞かされたの。……私は、ロメーダの人間じゃない。ソビヤ王国の王家の血を引く者だって。そして、私たちの家系は代々、帝国に深く潜伏しながら、裏で祖国ソビヤのために働き続けている一族なのだってね」
ミラは自嘲気味に、少しだけ肩をすくめてみせた。
「最初はね、そんなの知るかー!って思ったわよ。私は帝国の人間として育てられたんだからって。だけど、父や祖父たちの本当の仕事を知って、考えが変わったの。彼らはね、どちらかの国を陥れて滅ぼすためにスパイをやっているんじゃなかった。両方の国が不必要な『疑心暗鬼』に陥って、全面戦争になるのを防ぐために、命を懸けて情報をコントロールしていたの。それが分かったから、私は今、この二重スパイという泥をすするような生き方に、誰よりもプライドを持って向き合っているわ」
ミラは窓の外の空を仰ぎ、優しく微笑んだ。
「今回の任務もそう。さっき放った鳩によって、第115項の未来予言はソビヤに届いたわ。これで、ロメーダ帝国がまた何か悪巧みを企んでいるんじゃないかっていう祖国の不必要な疑念は晴れるし、先手を打って平和的な均衡を保つことができる。……そういう仕組みよ」
カノープスは彼女の理路整然とした言葉に、深く納得せざるを得なかった。情報を独占して覇権を狙う帝国に対し、情報を共有することで破滅的な戦争を防ぐ。それこそが彼女のポリシーなのだ。
カノープスは静かに彼女の言葉を噛み締めた。
確かに、ミラの言い分には完璧な筋が通っている。すべてに納得はいった。だが――だからこそ、カノープスの中には、一つの重大な疑問が浮かび上がってくる。
二重スパイにとって、己の素性と目的を明かすことは、そのまま「死」を意味する最大の禁忌のはずだ。
カノープスは一歩、ミラへと歩み寄り、その真意を問いただすように静かに声を掛けた。
「……事情はすべて分かりました、ミラさん。ですが、何故それを『僕』に話したんですか? 僕はミルキーウェールズの隠密です。泳がせておけば、僕を都合よく利用できたはずだ。どうして、そんな危険なカミングアウトを……?」
カノープスの問いかけに、ミラは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
だが、次の瞬間には、いつもの彼女らしい、どこか悪戯っぽくて、それでいて少女のように愛らしい笑みをその唇に浮かべたのだ。
「そーね。……それは、私がカノープス君と、本当の『友達以上』になりたかったから、かな」
「……っ」
予想だにしない返答に、カノープスの頬が微かに熱くなる。ミラは一歩距離を詰めると、首を少し傾げて、カノープスの目を覗き込んできた。
「だって、これからもっと仲良くしたい相手に、ずっと隠し事をしてるなんて良くないでしょ?」
そう言って、悪びれもせずに悪戯っぽく笑うミラの姿は、あまりにも眩しかった。
裏切りの泥沼のようなスパイの世界で、命を懸けて自分を信頼し、その心の「一番綺麗な本音」を打ち明けてくれた彼女の気高さに、カノープスは深い敬意と、それ以上の愛おしさを抱かずにはいられなかった。
カノープスはふっと張り詰めた顔を緩めると、心中で小さく呟いた。
(……『仲良くしたかったら隠し事は良くない』、か)
その言葉を、常に世界の情報を独占し、謀略を巡らせ、世界を欺き続けている――あの傲慢極まりないロメーダ帝国の偉い奴らに、そのまま特大の拡声器で聞かせてやりたいものだ、と。
朝日に包まれた静寂の部屋の中で、二人の距離は、昨日までとは全く違うものへと変わっていた。
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