エピソード17 ヤンデレの呪縛と、砕かれた切り札
「――世界を揺るがす、本物の『英雄の相』がね」
至近距離で囁かれ、コイイモリ入りのワインを一気に飲み干したアンドロメダ皇后の姿に、カノープスは内心の動揺を必死に抑え込んでいた。
(よし……! 確実にコイイモリを服用した。あとは薬効が発動するのを待つだけだ!)
心の中でガッツポーズを決めつつも、カノープスは慇懃な態度を崩さずに戸惑ってみせた。
「……それはあまりにも過分な買い被りでございます、皇后陛下。自分はただの、しがない外交官の息子にすぎません」
「あら、遠慮深いのね。……そーね、もしもあなたがただの外交官の息子ではなく、『サムライ』や、闇に生きる『忍者』だったりしたら、また話は違ってくるかもしれないけれど?」
クスリと艶っぽく笑うアンドロメダの言葉に、カノープスの背筋にドッと冷たい戦慄が走った。
(……っ!? なぜ、その単語が出てくる……!? まさか、僕たちの正体を見抜いているのか……?)
息を呑むカノープスを観察するように、アンドロメダのエメラルドの瞳が妖しく光る。
「あなたの父親、ゼダルにはね……幾度も本物の死地を潜り抜けてきた男特有の、血と硝煙の匂いがするのよ。そして、あなたからも全く同じ匂いを感じる。――ふふ、私の気のせいかしら?」
その圧倒的な洞察力にカノープスが完全に呑まれかけた、まさにその時だった。
カッと、アンドロメダの瞳の色が劇的に変化した。
瞳孔が細まり、エメラルドの双眸がドロリとした熱を帯びた、異常なまでの輝きに染まる。――コイイモリの薬効が、ついに完全に発動したのだ。
この惚れ薬を服用した者は、効果発動の瞬間に『目の前にいる対象』に対して、脳が焼き切れるほどの凄まじい好意と独占欲を抱く。まさに今、ロメーダ帝国の絶対支配者の脳内が、カノープスという存在だけで塗りつぶされた。
「……ああ、坊や。不思議ね、急に胸が熱くなって、息が苦しいわ……」
アンドロメダは自らの豊かな胸元をガウン越しにかきむしり、熱い吐息を漏らしながらカノープスを凝視した。その目は、完全に獲物を狙う肉食獣のそれだった。
「坊や……! 私は今、あなたが欲しくて欲しくてたまらないわ……! ねえ、いいでしょう……?」
(かかった! 完全に効いている!)
形勢逆転を確信したカノープスは、ここぞとばかりに隠密としての鋭い顔を覗かせ、一気に「中策」の交渉へと切り出した。
「いいでしょう、皇后陛下。私をあなたの自由にして構いません。……しかし、その前に。特権寺院に隠された『賢者の書』の秘密を、私に教えていただけませんか?」
相手は自分に狂っているはずだ。どんな秘密でもあっさりと白状する――そう確信していたカノープスの目論見は、しかし、大魔導士の異常な精神力によって無残にも打ち砕かれる。
「……賢者の書ぉ? そんな退屈なもの、今はどうでもいいわ……!」
アンドロメダは狂おしげに頭を振ると、カノープスを睨みつけた。
「それにね、坊や……。いくら私があなたを愛おしく思っていようと、この私に『指図』をすることだけは許さないわ……!」
(えっ!? ちょっ、コイイモリさん、話が違うのでは……!? 好意を抱いたら従順になるんじゃなかったのかよ!?)
薬効による異常な執着が、従順さではなく「力ずくでの支配欲」へと最悪な形で変換されてしまっていた。アンドロメダはカノープスに向けて、即座に白い指先を突き出す。その指先に、凶悪な魔力が収束していく。
「――『チャーム(魅了)』!!」
(しまっ――精神干渉呪文……!!)
凄まじい精神支配の魔力がカノープスの脳を侵食しようとする。カノープスは歯を喰いしばり、自身の精神に眠る『隠密(忍者)』としての切り札を全力で発動させた。
「――『マインドリセット(精神回復)』ッ!!」
マインドリセット。それは『サムライ』『忍者』『ソードマスター』といった、極限の精神統制を極めた極一部の上位職の者だけが習得できる、あらゆる精神干渉を強制無効化する絶対防御スキルだ。
パァン!と脳内で澄んだ音が響き、皇后の放った『チャーム』の術式が一瞬で霧散した。
(危なかった……! なんとか防いだぞ!)
しかし、マインドリセットには致命的な弱点があった。最初の発動こそ最大の効果を発揮するが、連続で回数を重ねる毎に精神への負荷が増し、効果が著しく減衰していくのだ。実戦において、確実に通用するのは「最初の一回のみ」の諸刃の剣。
カノープスが術を弾いたことに気づいたアンドロメダは、驚くどころか、さらに狂気的な歓喜の笑みを浮かべた。
「あら、私のチャームを破るなんて……! やっぱりあなた、ただの坊やじゃないわね! ますます気に入ったわ……!!」
大魔導士としての常識を逸脱した、呪文の二重詠唱。彼女の手のひらから、間髪入れずに次の凶悪な魔術が解放される。
「――『パラライズ(麻痺)』!!」
「くっ、連発だと……!? 『マインドリセット』――あ、がはっ……!?」
必死に二回目の精神回復スキルを発動させようとしたカノープスだったが、脳を襲う激しい負荷と、アンドロメダの圧倒的な魔導出力の前に、スキルの発動が完全に遅れた。カノープスの全身を、網の目のように張り巡らされた漆黒の雷光――麻痺の呪縛が容赦なく襲う。
「仕、舞った……ッ! 後手を踏んだ!体が……動か、ない……!」
指先一本すら動かせない完全な麻痺状態。自由を奪われ、完全に無力化されたカノープスを見下ろし、アンドロメダは妖しく、そして実にお愉しみといった様子で歪んだ笑みを浮かべた。
「観念するのね、私の可愛い英雄の坊や……」
アンドロメダは邪魔なシルクのガウンをその場に音もなく脱ぎ捨てた。
露わになったのは、薄暗い部屋の明かりに白く浮かび上がる、極上の下着を身に纏った四十路前とは到底思えない完璧で妖艶な肢体。
ドサリ、と信じられないほどの豪腕の怪力で、カノープスの軽い身体が柔らかなベッドの上へと放り投げられる。
すかさず、アンドロメダはその肉感的な身体をしならせ、身動きの取れないカノープスの腹の上へと、ゆっくりと馬乗りになった。
甘い薔薇の香りと、彼女の肌から伝わる圧倒的な熱量。
至近距離で見下ろしてくるアンドロメダの、この世の者とは思えないほどに完成された妖艶たる美貌を前に、カノープスは麻痺の呪縛など関係なしに、ただその姿に目を奪われ、釘付けになってしまった。
(あ、圧倒的すぎる……。アークウィザードの魔力も、この人の大人の色気も……)
己の全ての策略が破綻し、上から見下ろしてくる絶世の美女の瞳に狂気的な愛情を見出したが最後。天才隠密カノープスは、静かに思考を放棄した。
(……あぁ。もう、どうなってもいいかも…)
深夜3時のミラとの合流まで、あと数時間。
カノープスは国家の運命も、自らの隠密としてのプライドも全て諦め、目の前の美しい怪物に身を委ねるべく、完全に観念した。
スゲーいいとこです。
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