エピソード16 英雄の相と、仕込まれた丸薬
無表情なメイドに連れられ、夜の闇を駆ける馬車のシートに揺られながら、カノープスは脳内で「プランAダッシュ」の成功条件を冷徹に整理していた。
大国ロメーダ帝国の事実上の絶対支配者、アンドロメダ皇后の私室への単身突入。これは貞操の危機であると同時に、千載一遇の好機でもある。この潜入で得るべき成果は三段階だ。
【上策】 皇后を完璧に籠絡し、彼女の権限で『賢者の書』の公式な閲覧許可をもぎ取ること。
【中策】 彼女の口を割らせ、会話の中から『賢者の書』の追加項の具体的な中身を聞き出すこと。
【下策】 最低でも、彼女が所持しているという特権寺院保管庫の物理鍵、および閲覧に必要な『暗号』を盗み出すこと。
(……やるしかない。ここで成果を上げれば、深夜3時のミラさんとの潜入作戦(プランB)のリスクを大幅に減らせる)
やがて馬車は、特権寺院の広大な敷地の一角に佇む、本丸にも劣らない豪華な別邸の前で静かに停車した。
カノープスはメイドに案内されるがまま、幾重もの厳重な結界を通り抜け、ついに最高権力者が待つ豪奢な寝室へと導かれた。
扉が開いた瞬間、濃厚な薔薇の香りと、めまいを覚えるほどの濃厚な魔力の残滓がカノープスを包み込んだ。
部屋の奥、豪奢な天蓋付きベッドの傍らで、アンドロメダ皇后は胸元も露わな艶やかなシルクのガウンを身に纏い、柔らかな高級ソファーに深く腰掛けていた。
傍らのサイドテーブルには、開けたばかりのワインボトルと、琥珀色の液体が揺れる飲みかけのグラスが静かに置かれている。
「――よく来たわね、坊や」
妖艶に微笑むアンドロメダから放たれる、常人を狂わせるほどの圧倒的な大人の色気。カノープスはその雰囲気に一瞬呑まれそうになりながらも、即座に心を鉄の意志で縛り、深く平伏して慇懃な礼を尽くした。
「はっ。今宵、皇后陛下より身に余るお招きを預かりましたこと、このカノープス、至上の喜びに存じ上げます」
「あら、一人前の口が利けるのね。ふふ、今晩は存分に楽しめそうだわ。期待しているわよ、坊や」
楽しげに喉を鳴らすと、アンドロメダは長い指先でグラスを弄びながら、ふと挑発的な笑みを浮かべて問いかけてきた。
「ところで――今日、私が、あなたのような『あまりルックスの冴えない坊や』を、どうしてわざわざ夜中に私室へ呼び出したのだと思う?」
(……っ! や、やっぱり僕、ルックス冴えないんだ……!!)
昼間のエリダヌス姫に続き、最高権力者たる美貌の皇后から直々に「冴えない」と太鼓判を押され、カノープスの心に本日二度目の精神的クリティカルヒット(大ダメージ)が突き刺さった。
内心で血の涙を流して凹みつつも、カノープスは必死にポーカーフェイスを維持し、殊更に殊勝な声を絞り出す。
「……申し訳ございません。我が身の至らなさゆえ、皇后陛下のお心の内、見当もつきませぬ」
「そう。……私はね、若い頃、歴史の教科書に出てくるような本物の『英雄』に憧れていたの」
アンドロメダは遠い目をし、少しだけ少女のような、どこか切ない声音で話を続けた。
「乙女チックだと思われるかしらね? でも、私はそういう世界を震撼させるほどの殿方と出会い、添い遂げたいと、心から願っていたのよね。……残念ながら、先代の皇帝は、私のそんな夢を満たしてくれるような男ではなかったけれど」
(先代皇帝への辛辣な愚痴……。だが、これこそが彼女の『隙』だ!)
カノープスは微細な呼吸の乱れ一つ見せず、隠密としての視線を鋭く巡らせる。
「私が卓越したウィザードであることは、そなたも知っているわね、坊や?」
「はい。大陸全土にその名を轟かせる、至高のアークウィザードであられると聞き及んでおります」
言葉を交わしながら、カノープスは袖口の中で指先を動かした。
今回、この化け物染みた皇后を無力化(籠絡)するために用意した秘策――惚れ薬『コイイモリ』。カノープスは現場の様々な状況に備え、「丸薬状」のものと、「粉末状」のものの二種類を隠し持っていた。
相手は超一流の魔導士だ。わずかな魔力の乱れや不自然な挙動があれば、即座に首を刎ねられる。カノープスはアンドロメダの視線、呼吸、ガウンの衣擦れの音のすべてに極限の注意を払いながら、自身の姿勢を僅かに変えた。
貴族としての優雅な一礼の動作――その一瞬、彼女の視界に完璧な「死角」を作り出す。
(――今だ!)
電光石火の早業。
衣服の擦れる音すら立てず、カノープスの指先から放たれた小さな丸薬が、放物線を描いてサイドテーブルのワインボトル……ではなく、その隣にある『飲みかけのワイングラス』の中へと、音もなく、一滴の水飛沫すら上げずに吸い込まれた。
(よし……! 成功だ!)
液体に溶け込む丸薬を確認し、カノープスは心の奥で快哉を叫んだ。これで、彼女がそのグラスに口を付ければ、プランAダッシュは最高の形で完遂へと向かう。
そんなカノープスの完璧な工作を知ってか知らずか、アンドロメダ皇后は艶やかに微笑んだまま、ソファーからゆっくりと上体を起こした。そのエメラルドの瞳が、妖しく怪しく輝く。
「私ね、多少、未来を見通す『占い』を嗜んでいるのだけれど……」
一歩、また一歩と、圧倒的なプレッシャーを伴って、彼女がカノープスへと近づいてくる。
「そして、今日、初めて対面した時……。あなたの中に、視えてしまったのよ」
アンドロメダの顔が、カノープスの目と鼻の先まで迫る。その吐息が届くほどの距離で、彼女は五感を痺れさせるような低い声で囁いた。
「――世界を揺るがす、本物の『英雄の相』がね」
そう言い放つと同時、アンドロメダはカノープスから視線を逸らさぬまま、サイドテーブルの、……まさにカノープスが『コイイモリ』を仕込んだばかりのワイングラスへと手を伸ばした。
そして、琥珀色の液体を、一気に喉の奥へと飲み干した。
こっから多分、はい、そうです。
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