エピソード15 プランAダッシュと、帝国の姫君エリダヌス
特権寺院での緊迫した拝謁を終えたミルキーウェールズ使節団の一行は、今宵の外交の締めくくりとなる晩餐会に出席するため、再びアルキメオン城の本丸へと馬車を走らせていた。
がたごとと揺れる馬車の狭い空間の中、隣に座る父親――ゼダルが、声を出さずに素早く唇を動かした。読唇術による、親子だけの秘密の通信だ。
『――カノープス。これはミルキーウェールズ諜報機関最高司令官としての、公式な命令だ』
ゼダルの目が、いつになく真剣な光を宿している。
『先ほどのアンドロメダ皇后との謁見により、本任務の「プランA(外交による情報収集)」における最低限の成果は得られたと判断する。……深夜に予定している「プランB(特権寺院への潜入作戦)」の実行は継続するが、これより【任務遂行者の命を最優先とすること】に作戦方針を切り替える。絶対に無理はするな』
それは、カノープスにとって何よりもありがたい、そして重みのある命令だった。
最高司令官から直々に「命最優先」の許可が出たのだ。これにより、今夜の潜入作戦で万が一のことがあっても、ミラと自分の安全を第一に行動できる。ミラを必要以上に危険な目に晒さなくて済むばかりか、退路の確保を含めて作戦の選択肢が格段に広がるのだ。
(さすがは父上だ。いざという時の引き際の判断は冷徹で、そして……温かい)
カノープスが胸の中で密かに感謝した、その瞬間。ゼダルは真顔のまま、再び唇を動かした。
『――なお、それに伴い、先ほど急遽【プランAダッシュ(皇后の私室への突入・籠絡作戦)】が発生したが……。まぁ、そっちの方は身を粉にしてガンバレ』
(……「まぁガンバレ」って、プランAダッシュかよ!!!)
カノープスは内心で頭を抱えた。あの恐るべき絶対支配者・アンドロメダ皇后の部屋へ単身乗り込むという前代未聞の貞操危機ミッションを、さも公式作戦のように命名して丸投げしてくるあたり、やはりこの親父は油断がならない。
結局、馬車が本丸の華やかな車寄せに到着するまで、カノープスの心が晴れることはなかった。
(どぉするんだよ、これ……。晩餐会が終わったら、本当に行かなきゃならないのか……)
重い足取りで馬車から地面に降り立った時だった。
「お疲れ様、カノープス君!」
不意にかけられた弾んだ声に顔を上げると、そこには見違えるほどドレスアップしたミラとセーラの二人が佇んでいた。
いつも活動的な帝国軍の制服を着ているミラが身に纏っていたのは、夕暮れの陽光のように鮮やかなオレンジ色のカクテルドレス。綺麗に結い上げられ、上品に整えられた彼女の髪型も相まって、普段よりぐっと大人びたミラの艶やかな姿がそこにあった。
「……どうかな? これ、似合ってる?」
少し照れくさそうに首を傾げるミラを見て、カノープスは思わずドギマギし、耳たぶまで真っ赤に染めて視線を彷徨わせた。
「す、素敵……です。とても、よく似合っています」
蚊の鳴くような声でようやくそれだけ答えると、ミラは嬉そうにクスリと笑った。そのままミラたちにエスコートされる形で、華やかな照明が煌々と輝く晩餐会の会場へと赴く。
絢爛豪華な大広間へと続く回廊を歩いている途中、ミラが不意にカノープスの耳元へと顔を寄せ、密やかな声で囁きかけてきた。
「ねえ、今日の晩餐会、あのエリダヌス姫も参加されるらしいわよ」
「エリダヌス姫?」
「そう。レグルス皇帝のひとつ下の腹違いの妹君。なんでも、過保護に甘やかされて育ったせいで、周囲の者たちがこぞって手を焼いているっていう、有名なワガママお嬢様。……でね、何やらその姫君が、事前に『カノープス君に興味がある』って言ていたらしいのよ。どうする?」
からかうようなミラの囁きに、カノープスは小さく目を丸くした。
帝国の高慢な姫君が、自分に興味を持っている?
(待てよ……? 昨晩のミラさんとの添い寝未遂に始まり、さっきの皇后様からの熱烈な美少年認定、そして今度は帝国のお姫様からの関心……。もしかして俺、男子として、実はかなり『イケてる部類』に入っているんじゃないか……?)
生まれて初めて訪れた、人生最大のモテ期の予感。
つい数分前まで「無理です」と絶望していたはずのチュワートス家の嫡男は、にわかに天狗になりかけていた。身分が違いすぎるお姫様との恋。それはきっと、数々の障壁が立ち塞がる美しい悲恋になるに違いない――などと、妄想の翼を広げる。
会場に足を踏み入れると、そこはすでに、色とりどりの華やかな宮廷料理と高級ワインの芳醇な香りで満ち溢れていた。ミルキーウェールズの使節団と、ロメーダ帝国の名だたる重鎮たちが一堂に会している。
もちろん、表向きの華やかさとは裏腹に、ここもまた笑顔の裏で「たぬきと狐」が化かし合い、国家の機密を盗み合っている熾烈な情報戦の戦場だ。本来なら隠密として貴重な情報収集に奔走すべき場なのだが、今のカノープスはとてもそんな気分にはなれなかった。
その時、会場の喧騒がピタリと止み、水を打ったような静寂が広がった。
「――ゼダルの息子、カノープスはどこ?」
高飛車で、鈴を転がすような高い声が響き渡る。
会場の2階席、大階段の壇上から大勢の出席者を見下ろすようにして立っていたのは、一人の眩い令嬢だった。
まばゆい金髪に、勝ち気そうな碧眼。透き通るような白い肌をドレスで包んだその姿は、まさに絵に描いたような、美しいお姫様――エリダヌス姫その人であった。
カノープスは一歩前に出ると、貴族としての精一杯の爽やかな笑顔を作り、声を張った。
「ゼダルが嫡男、カノープスめはこちらにございます、姫殿下」
誰もがその美少年の佇まいに見惚れるだろう――カノープスがそう確信した、次の瞬間だった。
壇上のエリダヌス姫は、カノープスの姿を一瞥するなり、あからさまに失望したようにふんと鼻を鳴らした。
「……そっ。なんだか、冴えないわね」
冷たく吐き捨てるように呟くと、姫は一瞬で興味を失った様子で、そのままカノープスに背を向けて会場から足早に出ていってしまった。
「…………え?」
カノープスの笑顔がフリーズした。
周囲の貴族たちの、同情と冷やかしの混じった視線が突き刺さる。
(さ、冴えない……? 俺が……?)
直前まで「俺、もしかしてイケてる?」などと自惚れていた分、その反動は凄まじかった。
胸の奥で、何かが盛大に粉砕される音がした。とてつもない精神的ダメージ。確かに身分違いの恋は、始まる前に終わったという意味で『悲恋』だった。当たってはいた。当たってはいたが――あまりにも思っていたのと違いすぎる。
頭を抱えて完全に凹みきったカノープスは、幽霊のような足取りで会場の隅の椅子に座り込んだ。そんな彼を、オレンジ色のドレスを揺らしたミラが、慌てて追いかけてきて隣に座る。
「カ、カノープス君、元気出して! あのお姫様は、カノープス君のその……隠された素敵な中身を分かってないだけよ!」
ミラの必死で優しい慰めの言葉が、傷ついた心にじんわりと染みる。
「……ありがとう、ミラさん」
どうにかお礼は言ったものの、それでも男子としてのプライドに受けた傷は深く、カノープスは放心状態で天井を見つめ、魂が抜けたように惚けていた。
しかし、無情にも運命の時間はカノープスを待ってはくれない。
「――カノープス様」
不意に、背後から冷徹で感情の籠もっていない、機械的な声がした。
振り返ると、そこには一切の表情を消した、いかにも「皇后の手先」といった佇まいの、冷ややかな帝国メイドが音もなく立っていた。
「アンドロメダ皇后様が、私室にてお待ちです。……お連れいたします」
その言葉を聞いた瞬間、カノープスの脳内から、先ほどまでの失恋のショックが一瞬で吹き飛んだ。
(――ついに、来たか。……プランAダッシュの時間が)
お姫様のワガママに付き合っている時間は終わりだ。ここから先は、一歩間違えれば国家の破滅、そして己の貞操の終焉を意味する、文字通りのデスゲーム。
カノープスは砕け散った心を強引につなぎ合わせると、天才隠密としての鋭く冷徹な表情を引き締め、静かに席から立ち上がった。
いよいよプランAダッシュ。ゾクワクです。
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