第8話:『高揚と嫌悪』
「……目が見えないなら、その綺麗な布も、背負った宝物も、お前さんには過ぎた代物だ。なあ、悪いようにはしねえ。その剣を置いて、俺たちと一緒に来いよ」
男の言葉と共に、アイリスの周囲の空気がじっとりと湿り気を帯びた。それはエヴァリアの清冽な霧とは似ても似つかない、腐敗した沼から立ち上るような不快な熱気だった。
アイリスは、自らの知覚が捉えた「光景」に、激しい眩暈を覚えた。 視覚を持たぬ彼女にとって、他者の存在とは魂が奏でる「旋律」であり、立ち上る「気配」だ。エヴァリアの住人たちは、不変の時の中で磨り減り、凪いでしまった、透明で静かな色をしていた。
だが、目の前の男たちは違った。
(……これが、人間の色なの?)
彼女の「内なる眼」が映し出したのは、黒く淀み、不規則に脈動する不気味な影だった。それは「欲」という名の毒に侵され、激しく、醜く活動する魂の色。他者の尊厳を泥靴で踏みにじることに躊躇がなく、自分の生を肥やすために略奪を肯定する――まごうことなき「悪意」。ゆっくりと呼吸し愛でる心の冒涜。
そのあまりの毒々しさに、アイリスの心に初めて「後悔」という名の影が差した。 エヴァリアの館に留まっていれば、一生出会うことのなかった感情。あそこは停滞した牢獄であったかもしれないが、少なくともこのような泥濘に触れることはなかった。
(私は、こんなものを知るために、あの静寂を捨てたのだろうか……)
一瞬の動揺。それを「盲目の少女の怯え」と見誤った軽薄な方の男が、下卑た笑い声を上げて手を伸ばした。
「ほらよ、まずはその銀髪を拝ませて――」
その指先がアイリスの外套に触れる寸前。 世界が、静止した。
アイリスは背負った始祖の剣の柄に手を添えていた。だが、抜かなかった。 この男たちは、確かに醜い。けれど、この絶対的な「虚無」を、生命の循環さえ断ち切るこの刃を、単なる卑小な悪意の報いとして振るう必要はないと、彼女の理性が告げていた。
「……下がってください」
アイリスは、背負った剣ではなく、旅の杖として使っていた「鉄の杖」を静かに、けれど流れるような動作で構え直した。
「あ? なんだその棒切れは。盲目姫が抵抗――」
男の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
アイリスが一歩、踏み出す。 それは歩行ではない。
大気そのものに溶け込み、重力さえも味方につけた、エヴァリアの一族のみに許された歩法。
「――ッ!?」
男の視界から、アイリスが消えた。
次の瞬間、男の顎に鋭い衝撃が走った。
杖の先端が、寸分の狂いもなく急所を跳ね上げたのだ。脳を揺さぶる一撃。
男は悲鳴を上げる暇もなく、糸が切れた人形のように地面に転がった。
「テメェ、何しやがった!」
重い足音の男が、腰の蛮刀を抜き放つ。
しかし、その動作はアイリスにとっては止まっているも同然だった。
エヴァリアの剣術は、視覚を捨てた者が、世界と調和するために磨き上げた芸術だ。相手が空気を動かす僅かな予兆、筋肉が収縮する音、踏み出す瞬間の重心の移動。そのすべてが、アイリスにとっては夜空に響く鐘の音のように明白だった。
「遅いです」
冷徹な一言と共に、アイリスの杖がしなり、男の右腕の神経を的確に叩いた。 「ギャアッ!」という絶叫。男の掌から蛮刀がこぼれ落ち、石畳を虚しく叩く。
アイリスは追撃をせず、ただ静かに佇んでいた。
その姿は、荒野の泥濘の中に咲く一輪の銀の花のように、寄せ付けることを許さない気高い拒絶に満ちていた。
男たちはようやく理解した。
自分たちが絡んだのは、弱々しい盲目の少女などではなく、住む世界が決定的に異なる「至高の暴力」を背負った怪物であったことを。
アイリスの周囲で、淀んでいた魂の光が、恐怖という名の色に塗り替えられていく。 格の違い――それは、剣を抜くことさえなく示された。
地面に這いつくばった男たちの呼吸は、もはや濁った獣のそれだった。
アイリスは杖を正眼に構えたまま、静かに彼らを見下ろしている。かつて彼女が向き合ってきたのは、過剰な再生によって自我を失い、肉の塊へと成り果てた「哀れな暴走者」たちだった。彼らを制圧することは、慈悲に近い義務だった。
だが、目の前の男たちは違う。彼らには確かな意識があり、言葉があり、そして醜悪な欲があった。
(私は今……明確な意思を持った人間を、この力でねじ伏せた)
初めて味わう「制圧」という名の高揚感と、それ以上に重くのしかかる自己嫌悪。アイリスの指先に伝わる鉄杖の震えは、男たちの恐怖ではなく、彼女自身の内面から湧き上がる拒絶反応だった。
「ひっ、ひぃっ……! 待ってくれ、悪かった! 悪気があったわけじゃねぇんだ!」
腕を押さえ、這いずりながら命乞いをする男の声に、アイリスは冷徹な響きを意識的に持たせて問いかけた。
「……『エンド・ロア』。そこは、どんな場所ですか。隠さずに答えなさい」
「あ、あそこは……『吹き溜まり』だ! どんな傷も病も治らねぇ、死を待つだけの連中が最後に辿り着く場所なんだよ。そこには『司祭』って呼ばれる奴らがいて、不吉な『儀式』を執り行ってるって噂だ……! 本当だ、俺たちが知ってるのはそれだけだ!」
アイリスは男の魂の音を聴く。恐怖に支配され、もはや嘘をつく余裕すらない、剥き出しの真実の響き。
「……もう行きなさい。二度と、私の前に現れないで」
アイリスが杖を引くと、男たちは転がるようにして逃げ出した。砂利を撥ね、無様に転びながらも、彼らの気配は急速に遠ざかっていく。
静寂が戻った荒野に、アイリスは一人取り残された。
勝利したはずなのに、胸のうちは泥を啜ったような不快感で満ちていた。
エヴァリアにいた頃、市場で「明日も待っているよ」と微笑んでくれたマーサ。
彼女のような静かな善意に満ちた世界を、自分は自らの手で捨てたのだ。
(あそこには、こんな醜い争いはなかった。誰もが明日を疑わず、奪い合う必要さえなかったのに)
外の世界の「騒がしい悪意」に触れるたび、彼女の決意は小刻みに震える。
自分が求めている「終わり」は、本当にこの醜悪な世界に必要なものなのだろうか。自分はただ、美しい楽園に死という名の毒を持ち込もうとしている、最悪の侵略者ではないのか。
「それでも……」
彼女は背中の始祖の剣に、そっと掌を当てた。 男たちが「不治の病の者が集まる」と言ったエンド・ロア。そこには、エヴァリアが失ってしまった「終わりの法」の片鱗があるはずだ。
(あの男を斬った時に視た、あの黄金の情景。あれが偽りでないのなら、私は行かなければならない。この悪意も、この苦しみも……すべてがいつか、正しく眠りにつける場所へ)
アイリスは、自分の内側に芽生えた暴力的な高圧感への嫌悪を、深く長い呼吸と共に吐き出した。 自省の念を抱えながらも、彼女は杖を突き、再び歩き出す。
足裏に伝わる乾いた土の感触は、どこまでも過酷で、実直だった。
男たちから聞き出した言葉――『エンド・ロア』。
世界の果て、死を待つ街。
盲目の少女は、かつてないほど重くなった背中の剣と共に、その不吉な名が指し示す方角へと、一歩、また一歩と孤独な足跡を刻んでいった。




