第7話:『陽光の洗礼』
どれほどの時間、眠りに沈んでいたのだろうか。
アイリスは、意識が浮上する過程で、これまでに経験したことのない奇妙な「圧迫感」を全身に感じていた。
エヴァリアの夜は、常に霧が音を吸い込み、月光が静寂を祝福する凪の時間だった。
だが、今の彼女を包んでいるのは、もっと暴力的で、それでいて生命の根源を揺さぶるような未知の振動――「光」だった。
(……温かい。けれど、痛いほどに重い)
瞼の裏側を、見たこともないような鮮烈な赤色が透過してくる。
盲目として生まれた彼女にとって、光とは「温度」と「気配」の別名に過ぎなかったが、今、天から降り注ぐこの陽光は、肌を突き刺し、血管を逆流させるような圧倒的なエネルギーを伴っていた。
彼女は、霧に守られていない剥き出しの太陽が、これほどまでに強大であることを知らなかった。
「……っ」
身を起こそうとして、アイリスは外套を強く引き寄せた。 太陽の熱が肌を焼く一方で、通り抜ける風は氷のように冷たい。
エヴァリアの空気は常に一定の湿り気と温度を保ち、身体を優しく包んでいた。しかし外の世界には、そんな加護はない。
初めて感じる「肌寒さ」という感覚。それは肉体の熱が、外の世界という巨大な空虚に奪われていく、切ないほどの「喪失」の感触だった。
立ち上がった彼女の胃の奥で、昨夜摂取した魔物の核が、未だに重い存在感を放っている。 命を奪い、その魂ごと腹に収めたという生々しい記憶。
噛み締めた際の硬い外殻の音、溢れ出した体液の苦み、そして自分の中に溶けていった、あの魔物の「終わりの瞬間」。
それは、エヴァリアで義務として摂取していた無機質な栄養剤とは、決定的に違っていた。
(私は今、別の命を消費して立っている。私の血の中には、あの魔物の時間が混ざっている……)
その自覚は、彼女を孤独にすると同時に、この世界の一端を担っているという奇妙な連帯感を与えていた。
アイリスは始祖の剣を背負い直し、再び杖を突いた。
道はない。けれど、彼女には培ってきた「感覚」がある。地面のわずかな傾斜、風が運んでくる遠い水の匂い、大気の密度の変化。彼女は、霧というフィルターを失った剥き出しの世界の音に耳を澄ませ、手探りで歩き出した。
乾いた砂利が杖の先で跳ねる音。遠くで響く鳥の叫び。
すべてが新しく、すべてが危険に満ちていたが、アイリスの足取りに迷いはなかった。彼女の中にある「終わりの美しさ」を求める渇望が、彼女を前へと押し出していた。
数刻が過ぎた頃だろうか。 アイリスの感覚が、前方に「異質な波紋」を捉えた。
エヴァリアの住人が放つ、あの不変で凪いだ魂の鼓動ではない。
もっと複雑で、不規則で、激しく揺れ動く――まるで、燃え盛る焚き火が爆ぜるような、生々しい魂の響き。
(……人? いいえ、これは……)
アイリスは足を止めた。 かつて、街の市場で小耳に挟んだ話を思い出す。 エヴァリアには、限られた商人が外の世界から品を持ち込むことがあった。彼らが語る外の世界の住人は、「常に死に追われ、それゆえに毒々しいほどに生にしがみつく者たち」だと言われていた。
一族の館で、父や兄弟子たちが眉をひそめて語っていた、理の外にある存在。
近づいてくる足音は二つ。
一つは重く、金属が擦れ合うような硬質な音。
もう一つは軽く、せわしなく地面を叩く音。
そこには、エヴァリアには存在しない「腐敗」と「再生」が目まぐるしく入れ替わる、特有の死臭と生命力が混在していた。
「――おい、見ろよ。こんな荒野に、女が一人だぜ」
響いてきたのは、エヴァリアのどの楽器よりも粗野で、それでいて驚くほど豊かな倍音を含んだ「声」だった。 アイリスの心臓が、一度大きく跳ねる。
「……しかも、銀髪だ。おい、その格好……どっかの貴族の迷子か?」
アイリスは、外套の下で始祖の剣の柄を静かに意識した。
彼女が初めて出会った「外の世界の住人」。
それは、彼女が求めていた「救済」の使者か、あるいは、彼女が背負う「断絶」の力を奪わんとする敵か。
アイリスは静かに口を開いた。「……ここは、どこですか」
アイリスの震える声に応えるように、二つの気配がさらに近づいた。 一人は岩を噛むような重い足音、もう一人は砂利を撥ねる軽薄な足音。エヴァリアの住人であれば、相手の気配に「凪」を求め、静かに調和を図るのが礼儀だ。
しかし、目の前の二人の鼓動は、驚くほど騒がしく、攻撃的ですらあった。
「どこ、だと? 違いない、こいつはきっと本物の『世捨て人の国』の迷い子だぜ」
一人が、喉を鳴らして笑った。
その声の響きには、エヴァリアでは決して聞くことのない「老い」の掠れが混じっている。
アイリスが顔を上げると、男たちは彼女の顔に巻かれた「白銀の布」に目を留めた。一族の紋様が細かく刺繍されたその目隠しは、彼女がエヴァリアの剣士であることを示す誇りだったが、この地の者には奇妙な装飾にしか見えない。
「おいおい、お嬢ちゃん。その目は飾りか? それとも、太陽を拝むのが怖くて隠してるのかい?」
軽薄な方の男が、面白がるように顔を覗き込んできた。
彼らにとって、視覚がないということは、一方的な「弱者」であることを意味する。
エヴァリアでは当たり前だった「見えないことへの適応」が、外の世界では「絶好の獲物」という記号に成り下がっていた。
「目が見えねえのに、一人でこんな荒野を歩くたぁ、いい度胸だ。どっかの高貴な家柄の盲目姫が、護衛とはぐれたってところか?」
「……触れないでください」
アイリスは、近づいてくる男の手を遮るように杖を引いた。
男たちが放つ魂の音は、驚くほど濁っている。それはエヴァリアで語られていた蔑称そのものだった。
『外の者たちは、常に消失の影に怯えている。それゆえに彼らは卑屈なほど、他者の持ち物を貪り、しがみつく』
昨夜、自らの手で魔物の命を絶ち、その温もりを啜ったアイリスには、彼らの悪意の根源が理解できてしまった。彼らは奪わなければ明日がない。
彼らの魂が放つ不快な摩擦音は、消えることを恐れるあまりに肥大化した、歪な「生の執着」なのだ。
「おっと、つれねえな。俺たちは親切な廃品回収屋でね。盲目の美人が行き倒れてるのを放っておくほど、鬼じゃねえんだ」
「そうだ。助けてやる代わりに、その背負ってる『剣』を一度見せてもらおうか。お前さんには重すぎる代物だろう?」
男たちの魂の音が、一瞬で「欲」の色に染まる。
彼らの注意は、アイリスの背にある始祖の剣に注がれていた。
エヴァリアの秘宝であるその剣が放つ、音を飲み込むような異質な静寂。彼らはその真の恐ろしさを知る由もなく、ただ「高く売れそうな宝」として見ている。
アイリスは、自らの内に眠る始祖の剣が、男たちの悪意に反応して冷たく脈打つのを感じた。 昨日、魔物の命を奪った時とは違う。
この剣は今、目の前の男たちが持つ「明日」さえも、一瞬で無に帰そうと待ち構えている。
「答えなさい。ここは、どこなの」
アイリスが静かに、しかし拒絶を込めて問うと、重い足音の男が嘲笑を収めて答えた。
「ここは『境界の荒野』。この先を三日も歩けば、不治の病と罪人が集う、行き止まりの街『エンド・ロア』がある。……だが、盲目のお嬢ちゃんが行ける場所じゃねえな。お前さんなら、俺たちの故郷に連れて行ってやった方が、いい値で……いや、幸せになれるぜ」
エンド・ロア。 その名を聞いた瞬間、アイリスの胸の奥で、始祖の剣がかつてないほど激しく共鳴した。 「終わりの法」――その言葉が、彼女の脳裏に直接刻み込まれる。
「……ありがとう。助かりました」
アイリスは杖を突き、男たちの脇を通り抜けようとした。
だが、重い足音の男が、その太い腕を横に突き出し、彼女の進路を塞いだ。
「待てと言ってるんだ、盲目姫。耳は生きてるんだろ? 素直にその剣を渡せば、命までは取らねえと言ってるんだ」
空気が凍りついた。 男の放つ殺気が、エヴァリアの霧よりも濃くアイリスを包む。 アイリスは外套の中で、始祖の剣の柄に、そっと、けれど決然とした指先を添えた。
彼女はまだ知らない。この「外の世界」では、死は奪うものであり、同時に奪われるものでもあるということを。
盲目の少女の旅は、初めての「対人」という、最も残酷な洗礼を迎えようとしていた。




