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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
永劫の凪と救済の深淵
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第6話:『生命の産声』

 エヴァリアを隔てる「霧の壁」を抜けたその瞬間、アイリスの知覚は、かつてない情報の奔流に飲み込まれた。


 まず襲ってきたのは、暴力的なまでの「無」だった。


 エヴァリアの空気には、常に微細な水の粒子が舞い、それが人々の話し声や足音を優しく包み、反響させていた。


 だが、この外の世界の空気には、湿り気という名の慈悲がない。放たれた音はどこまでも真っ直ぐに直進し、何にもぶつかることなく虚空へと消えていく。


 アイリスは、自分がまるで宇宙の深淵に放り出されたかのような、頼りない浮遊感に眩暈を覚えた。


(……音が、返ってこない)


 杖を突く。 「コツン」という乾いた音が一度だけ響き、それきりだ。


 エヴァリアなら石畳を伝って周囲の建物の輪郭を教えてくれた振動が、ここでは砂を噛むような鈍い感触となって足裏で死んでいく。


 彼女は震える手で、近くにあるはずの「何か」を探した。

 指先が触れたのは、ゴツゴツとした岩の肌だった。


 だが、それはエヴァリアの庭園にあるような、苔に守られた柔らかな岩ではない。

 数百年、あるいは数千年の風雪に晒され、ひび割れ、鋭く尖った、剥き出しの骸だ。


 呼吸が浅くなる。喉の奥が、乾いた砂を吸い込んだようにひりつく。


 エヴァリアにおいて、生きることは「呼吸」と同じように自然なことだった。だがここでは、一息吸うこと、一歩踏み出すことさえもが自らの命を削って対価を支払うような「労働」であり「対価」でもあった。


 しかし、恐怖が頂点に達しようとしたその時。

 風が、エヴァリアでは決して嗅ぐことのなかった「香り」を運んできた。


 それは、湿った土の匂いでも、香草の甘い香りでもない。

 もっと野性味のある、鼻腔を突き抜けるような青臭さと、太陽の熱に焼かれた大地の、焦げたような香ばしさ。そして、遠くで何かが「朽ち果てていく」ことで放たれる、生命の終わりの芳香。


(……生きている。世界が、本当に、生きている音がする)


 アイリスは耳を澄ませた。

 すると、虚無だと思っていた暗闇の底から、微かな、だが力強い合奏が聞こえ始めた。


 頭上では、風が巨大な樹々の梢を揺らし、千切れた葉が「カサリ」と乾いた断末魔を上げて地面へ落ちる音。 足元では、岩の隙間を縫うようにして、名もなき小さな虫たちが外殻を擦り合わせ、求愛とも威嚇とも取れる金属的な旋律を奏でている。 そして遥か遠方、山嶺の合間を縫うようにして、巨大な翼を持つ何かが空気を引き裂く重低音。


 それは、エヴァリアの「調律された静寂」とは真逆の、無秩序で、凶暴で、それゆえに圧倒的な生命感に満ちたオーケストラだった。


「……きれい」


 アイリスの唇から、無意識に独り言が漏れた。

 視覚という欺瞞のない彼女にとって、世界は「振動」と「気配」で描かれる絵画だ。

 エヴァリアの絵画が、月光の下で永遠に変化しない銀細工だとしたら、この外の世界は、刻一刻と筆致を変え、色が混ざり合い、崩れては再構築される、狂気的なまでの極彩色だった。


 彼女は杖を強く握り直した。

 恐怖が消えたわけではない。

 むしろ、一歩踏み外せばそのまま「死」へと直結するこの世界の危うさを、肌の毛穴一つ一つが敏感に察知して震えている。

 だが、その恐怖こそが、彼女に「自分が今、生きている」という強烈な実感を与えていた。


(再生されるだけの肉体ではない。私は今、ここで摩耗し、消費され、世界の一部になろうとしている)


 ふと、背後から何かが近づく気配を察知した。 それは人間の歩法ではない。


 四肢で大地を掴み、喉の奥で低く「ゴロゴロ」と雷のような音を鳴らす、捕食者の気配。 エヴァリアの伝承でしか聞いたことのない「獣」という存在。


 アイリスは始祖の剣の鞘に手を添えた。 抜く必要はない。

 ただ、剣が放つ微かな「終わりの波動」が、野生の直感を持つ生物に対して、静かな警告を発する。


 獣は、アイリスの数メートル先で足を止めた。 鋭い爪が地面を削る音。鼻を鳴らし、未知の侵入者の匂いを嗅ぐ音。 緊迫した時間が流れる。


 やがて、獣は獲物ではないと判断したのか、あるいはアイリスが纏う「死」の気配に恐れをなしたのか、音もなく霧の向こうへと去っていった。


「ふう……」


 アイリスは、初めて自分が「外の理」の中で勝利したことを知った。 戦いではなく、ただ存在することで、世界に認められたのだ。


 彼女は再び歩き出す。

 目指すのは、この先に眠るという「真実の終止符」。


 盲目の少女の銀髪が、故郷にはなかった「夜明け前の冷たい風」に、誇らしげになびいている。


 エヴァリアを出てから数刻、アイリスの肉体に、かつて経験したことのない「変質」が始まった。


 最初は、内側から鋭い針で抉られるような鈍痛。それが次第に、全身の力を奪い去るような底なしの倦怠感へと変わっていく。


 エヴァリアでの食事や睡眠は、一族の規律として定められた「義務」に過ぎなかった。腹が減ることも、瞼が重くなることも、そこには存在しなかった。ただ時間が来たから器を空にし、再生し続ける肉体のために、燃料を流し込むだけの作業。


 だが、今、彼女を襲っているのは、命そのものが内側から摩耗し、消えていこうとする恐怖――「飢え」だった。


 杖を突く手が震え、膝が折れる。

 再生の加護が剥がれ落ちた体は、自らを燃やして進む灯火のように、絶えず新しい糧を求めて叫んでいる。呼吸一つ、一歩の歩みさえもが、貯えられた命を削り取っていく。 アイリスは、自分がこれほどまでに脆い、たった一度きりの「有限の器」であったことを、皮肉にも故郷を捨てて初めて理解した。


 その時、彼女の鋭敏な聴覚が、岩陰で「異質な音」を捉えた。


「――ギ、チ……ギチ、チ……」


 それは、鳥の羽ばたきでも、獣の足音でもない。硬質な外殻が擦れ合うような、不気味で湿った音。 アイリスが気配を辿ると、そこには美しいが毒々しい光《気配》を放つ、「月光蛾」という魔物の幼生が岩の隙間に挟まって身悶えていた。


 外の世界の魔物は、エヴァリアの住人のように「永遠」ではない。


 その幼生は、羽化に失敗したのか、あるいは天敵に襲われたのか、体液を流しながらその短い命を終えようとしていた。


「……あ」


 アイリスの鼻腔を、鼻を突くような強い香草の匂いと、鉄の匂いが混ざった独特の気が突いた。 エヴァリアの住人が流す、すぐに乾いて塞がる無機質な血ではない。


 この世界の理の中で、別の命へ受け継がれるのを待っている、濃密な生命の残り香。


 彼女は、生きるためにこの命を終わらせ、自らの糧にしなければならないことを本能で悟った。 震える手で背負った「始祖の剣」の柄に触れようとした、その時だ。


(……だめ。この剣を、この子に使ってはいけない)


 凄まじい拒絶感が、彼女の指先を弾いた。

 男を斬った時、彼女はこの剣がもたらす死を「美しい休息」だと信じた。

 けれど、今、目の前にある「死」は、それとは決定的に違っている。

 この魔物の幼生が死ねば、その骸は土に還り、別の草木を育み、巡り巡ってまた新しい命を生むだろう。それは残酷な「循環」だが、この世界の根底にある、調和のとれた終わりだ。


 対して、始祖の剣が放つ気配は、例えればあまりにも「絶対的」すぎた。 この刃が触れれば、この魔物は土に還ることさえ許されず、その存在のすべてが「虚無」へと吸い込まれ、永遠に停止してしまう。

 それは世界の輪から命を間引く行為ではなく、輪そのものを断ち切る毒のように。


 アイリスは始祖の剣から手を離し、代わりに護身用の鉄杖の先を、魔物の急所へと向けた。


「……赦してください」


 鈍い衝撃と共に、魔物の鼓動が止まる。 伝わってくるのは、生々しい肉の震えと、命が霧散していく際の僅かな熱。


 彼女は、その魔物が遺した源を摂取した。

 喉を通り、胃に落ちる重み。

 それは罪悪感と同時に、驚くほど確かな「生の充足」を彼女に与えた。 他者の終わりを喰らい、自分の生を繋ぐ。その残酷な等価交換こそが、外の世界の、本物の「生」の律動だった。


(私は、エヴァリアに『循環』を返したかった……。けれど、この剣がもたらすのは、そんな温かなものではない。これは……「救い」ではなく「断絶」……?)


 月明かりの下、アイリスは自分の掌を見つめた。 感じる。そこには魔物の青白い体液がこびりつき、生きた証が残っている。


 もし始祖の剣で斬っていたなら、何も残らず、手応えさえも消えていただろう。


「私は……何を、持ち出してしまったの」


 彼女は背中の剣の重みに、改めて戦慄した。

 自分が美しい完結だと思っていたものは、この世界の美しい循環さえも踏みにじる「絶対的な虚無」ではないのか。


 アイリスは、初めて訪れた「眠気」という名の深い安息に身を任せながら、母の編んでくれた厚手の外套を纏い、冷たい土の上で丸くなった。


 脆弱で、残酷で、けれど愛おしい、この世界の呼吸に耳を澄ませて。 彼女の旅は、ここから「死の真意」を問う、真の歩みへと変わっていった。

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