第9話:『忘却の残り火』
その道は、もはや道としての矜持を失っていた。
かつては石畳であったろう断片が、牙を剥いた獣の骨のように大地から突き出している。アイリスの杖が叩く音は、乾いた荒野のそれから、より硬質で、空洞を孕んだ「拒絶」の響きへと変わっていた。
灰色の石が支配する、死の静脈。
空を見上げれば、かつて彼女の肌を焼いた暴力的な陽光も、今では厚い雲という名の棺に覆われ、鉛色の微光を漏らすのみだ。
エヴァリアの銀の霧とは違う、何かが「腐り落ちた後」のような、澱んだ灰色。
アイリスは、ふと立ち止まった。 脳裏に、不意に反する鮮やかな記憶が明滅する。
それは、彼女が一族の過酷な修練を終え、初めて「剣」を振るうことを正式に許された日の音だった。
エヴァリアの王城、冷たい大理石の床に膝をつき、国王の衣が擦れる微かな絹の音を聞いた。
「女神に誓え。この永遠を、この凪を、その刃で守り抜くと」 若きアイリスは、曇りのない声音で応えた。街の平和を、絶えることのない命を、そしてエヴァリアという美しい加護を愛すると誓ったのだ。
あの時、彼女が握っていたのは、他者の救済を確信していた無垢な正義だった。
(……あの誓いは、どこへ消えたのだろう)
記憶の中の清冽な鐘の音は、今の彼女が踏みしめる石の軋みに掻き消されていく。
「――っ……」
不意に膝に走った鋭い痛みに、アイリスは呻き、杖を深く突いた。
見れば、外套の裾から覗く足首に、鋭利な石の破片がつけた赤い筋が走っている。
エヴァリアであれば、その傷は瞬きする間に月光の粒子となって霧散し、時間をかけて滑らかな肌が戻ってくるはずだった。
だが、ここでは血はいつまでも止まらず、痛みは引くどころか、鼓動に合わせて熱を帯びていく。
それは「疲労」という名の、肉体への裏切りだった。
関節は古い歯車のように軋み、肺は焦げた羊皮紙を広げるような重苦しさを伴っている。エヴァリアの加護を失った肉体は、一歩ごとにその「寿命」を支払い、確実に摩耗し、崩壊へと向かっていた。
(傷が……戻らない)
僅かな恐怖が、冷たい汗となって背筋を伝う。
エヴァリアの剣士として、訓練や実戦で傷を負うことは日常だった。
しかし、それらは常に「修復」されることが前提の、一時的な現象に過ぎなかった。
果たして、この外の世界において、傷は「完治」するものなのだろうか。
それとも、一度失われた欠片は二度と戻らず、そのまま腐り、朽ち果てていくのか。
しかし、その恐怖と背中合わせに、彼女はかつてない「輪郭」を感じていた。
痛みが、自分の存在を規定している。
傷から流れる血の熱さが、自分がただの「変化せぬ偶像」ではなく、この瞬間にのみ存在する「生命」であることを、これ以上ないほど雄弁に語りかけていた。私の生命が「呼吸」をしているということ。
その時だった。
「…………ゴォォ……ン…………」
遠く、灰色の雲の向こうから、重く、地面を引きずるような音が響いてきた。
それはエヴァリアの祝祭で鳴り響く、天へと昇るような軽やかな鈴の音とは正反対の響き。 大地の底を這い、すべての希望を泥の中に埋め戻すような、低く、湿った「葬礼の鐘」。
その音色は、美しく整えられた旋律ではない。
死を待つ者たちの呻きを、そのまま青銅に封じ込めたような、不吉で断絶的な響き。 一打ごとに、世界の体温がわずかに奪われていくような錯覚さえ覚える。
(……あの音が、呼んでいる)
アイリスは、背負った始祖の剣が、その鐘の音に呼応して冷たく凍りつくのを感じた。 「エンド・ロア」。 この先に待つのは、救済か、あるいは真なる虚無か。
彼女は震える足に力を込め、止まらぬ血をそのままに灰色の石畳を再び踏みしめた。 その一歩は、もはや誓いのためにあるのではない。
自分という脆い命の火を燃やし尽くし、本当の「終わり」に触れるための、飢えた巡礼者の歩みだった。
灰色の街道を、影が這うように進んでいた。
アイリスの感覚が捉えるそれは、もはや人間という「個」の輪郭を失いかけている、歪な集団の気配だ。
ある者は、腐敗した肉を包帯で縛り上げ、一歩ごとに膿と血を石畳に滴らせている。ある者は、自力で歩くことすら叶わず、痩せ細った獣のような呼吸を繰り返しながら、地面を這いずっている。
そこには、エヴァリアの「再生する歪み」とは対極にある、凄惨な「摩耗の極致」があった。
(……これが、吹き溜まりに向かう者たちの旋律なの?)
各国の王土から、あるいは見捨てられた僻地から、治しようのない病や、終わりのない苦痛に焼かれた者たちが、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、この場所を目指してくる。
自国で処刑されることさえ許されず、あるいは死さえもが贅沢となった果てに、彼らは伝説に残る「終わりの地」へ、自らの抜け殻を運び込んでいた。
アイリスは、その行列の傍らで立ち止まっている一人の気配に気づいた。 その「音」は、周囲の者たちに比べてあまりにも静かだった。風に吹かれる枯れ葉のように軽く、今にも霧散してしまいそうなほど希薄な鼓動。
「……お嬢さん。お前さんの足音は、この泥の中には相応しくないな」
かけられた声は、長い年月をかけて砂に削られた石のように、ひどく掠れていた。 アイリスが声のする方へ顔を向けると、そこには一人の老人が座り込んでいた。老人の肌は、エヴァリアの長命者のような「滑らかな停滞」ではなく、深く、幾重にも刻まれた皺が、彼が生きてきた時間の重みを地層のように物語っていた。
「……あなたは、エンド・ロアへ行くのですか?」
アイリスの問いに、老人は力なく笑った。
その笑い声には、不思議なほどに毒がなかった。
「行くも何も、ここはもう、あの街の門前のようなものだ。……見てごらん、いや、お前さんには視えないのか。だが、感じるだろう? この大気に混ざった『終わりの匂い』を。ここは、この世界で唯一、神様が目を逸らしてくださる場所なんだ」
老人がゆっくりと手を伸ばし、アイリスの腕に触れた。 その掌は驚くほど冷たく、けれど確かな弾力を持っていた。エヴァリアの住人が持つ「弾き返すような再生の熱」ではない。いつか消えることを受け入れた、儚くも愛おしい肉の温もり。
「病も、怪我も、呪いも……ここではすべて、等しく眠りにつく準備をさせてもらえる。お前さんの背負っているその『重い沈黙』も、あの街なら受け入れてくれるかもしれんな」
老人の指先から、アイリスは彼が抱える膨大な「疲労」を感じ取った。
それは数十年、あるいは百年以上も積み重ねられてきた、生きた証としての重圧だ。 アイリスは、不意に胸を突かれるような思いがした。
エヴァリアの者たちは、再生の加護によってこの「老い」の美しささえも奪われていたのだ。枯れていくこと、朽ちていくこと。それは敗北ではなく、一つの生命が完成へと向かう、もっとも厳かな手続きではないのか。
アイリスは老人の傍らに腰を下ろした。
指先を濡らす自分の血の熱さを感じながら、彼女は初めて、他者の「終わり」に向き合おうとしていた。
「……吹き溜まり、とあの男たちは呼んでいました。エンド・ロア。そこは、どのような場所なのですか」
老人は、喉の奥で小石が転がるような音を立てて笑った。
その呼吸音には、肺が形を保つのを諦めかけているような、脆い空気の漏れがある。
「吹き溜まり……。言い得て妙だな。ここはな、お嬢さん。あらゆる国の『理』からこぼれ落ちたカスが、最後に辿り着く器なのさ。各国の王たちは、自らの領土を清浄に保ちたがる。治しようのない腐り病、誰にも解けぬ呪い、あるいは死なせることすら禁じられた大罪人……。そういった『始末のつかない命』を、彼らはこの街へと掃き出すのだ」
老人の手が、地面の冷たい石を撫でた。
「自ら歩いてくる者もいれば、家畜のように荷馬車で運ばれてくる者もいる。ここには、希望など一欠片も落ちてはいない。街の景色を最期に首を刎ねられる。戦いの中で力果てる。それがどれだけよっぽどマシか……だがな……ここには、世界で唯一、本物の『眠り』があると言われている」
「……眠り」
「そうだ。エヴァリアという場所を知っているか?吹き溜まりから決して遠くはない国だ。 噂では、はるか昔からそこは死を忘れた神の庭だという。だが、我らから見れば、それは残酷な呪いだ。終わりがないということは、永久に苦痛を反芻し続けるということだ。エンド・ロアに集う連中は、それを何より恐れている。だからこそ、この街の『司祭』を求めるのだ」
老人の声が、葬礼の鐘の音に重なるように一段と低くなった。
「司祭たちは、もはや神など信じちゃいない。彼らが信じているのは、ただ一つの『安息』だ。儀式を通じて、もう修復できなくなった魂を、あるべき虚無へと解き放つ……。外の世界でさえ、死は時に残酷で、不条理だ。けれどここでは、死は丹念に育てられ、祝福として与えられる。……皮肉なものだ。命を最も粗末に扱う場所が、命を最も美しく終わらせる場所なのだから」
アイリスは、老人の言葉を反芻した。
エヴァリアでは「加護」と呼ばれていたものが、ここでは「呪い」と断じられ、忌むべき「死」がここでは「慈悲」として求められている。価値観の壮絶な反転。
老人は、アイリスの背にある始祖の剣の気配を感じ取ったのか、僅かに眉を動かした。
「お前さんが持っているそれは、司祭たちの祈りよりも、ずっと鋭い『終わりの香気』がするな。……いいか、お嬢さん。エンド・ロアに入るなら、覚悟しておくことだ。あそこには、救いを求めて互いの喉を掻き切るような飢えた亡者もいれば、ただ静かに腐っていくのを待つ聖者もいる。……そして、お前さんのような『完成された命』を、あそこの司祭たちがどう見るか……」
老人はそこまで言うと、深く長い溜息を吐き、そのまま深い眠りに落ちるかのように黙り込んだ。
アイリスは立ち上がった。 足首の傷は依然として痛み、身体は鉛のように重い。けれど、老人が語った「死の祝福」という言葉が、彼女の胸の奥で黄金の情景と結びついていた。
(救いとしての、終わり。私は……それを見極めなければならない)
彼女は背負った剣を強く握り直し、再び葬礼の鐘が鳴る方角へと歩き出した。 霧の向こう、崖の淵に建つ黒い街の門が、まるであらゆる苦悩を飲み込むための口のように、暗く開いていた。




