第10話:『正気の沙汰』
黒い石の壁が、天を突く墓標のように聳え立っていた。
エンド・ロア。その門は常に開かれていたが、そこを通る者は一様に現世の光を捨て去ったような、引きずるような足取りをしていた。
アイリスが門の前に立った瞬間、空気の密度が変わった。エヴァリアの霧が「生の停滞」を孕んでいたのに対し、ここを覆う湿り気は、生命の崩壊を煮詰めたような、甘ったるくも不快な死臭を帯びている。
「止まれ。……見ない顔だな」
門の脇、石の椅子に深く腰掛けた男が、錆びついた声を出した。
男は武器を持ってはいなかった。
代わりに持っていたのは、入街者の脈を測り、皮膚の腐敗を検分するためのほんの魔力を帯びた銀の器具。彼は門番ではなく、訪れる者が「十分に死に近いか」を判別する検死官であった。
「その白銀の目隠し……そして、この荒野を歩いてきたとは思えぬほど、整った肌。お前、どこの国の者だ。ここは健康な人間が迷い込む場所ではない」
アイリスは杖を強く握り、目隠しの下で男の「音」を聴いた。
この男の魂もまた、老いた木のように枯れ果てている。
だが、そこには先ほどのチンピラたちのような下卑た欲はない。
ただ、膨大な「終わり」を見届け続けてきた者特有の、底知れない諦念があった。
「……エヴァリアから来ました。私は、この街の司祭に会わねばなりません」
「エヴァリアだと?」
検死官が身を乗り出す。その拍子に、彼の纏う死の気配が揺れた。
「目が見えないのか。……やはりそうだ。あの忌々しい『不死の加護』に守られた、盲目の楽園。神に愛され、死を忘れ去った傲慢な国の住人が、なぜこんな場所にいる」
検死官の声に、明らかな嫌悪が混じる。
「帰れ、小娘。お前のような輝かしい生を謳歌する者がここに立ち入ることは、この街に辿り着いた者たちへの冒涜だ。ここは、死を願うことしか許されぬ者たちの最後の聖域。終わりを知らぬ者が、救済を求めて喘ぐ彼らの姿を冷やかしに来る場所ではない」
彼にとって、エヴァリアという存在は、エンド・ロアに集う者たちが最も憎み、そして最も絶望する「永遠」の象徴だった。苦痛が永遠に続くこと。それがどれほどの地獄かを知る彼らからすれば、エヴァリアの住人は「完成された毒」に等しい。
「……私は冷やかしに来たのではありません。私は、この背負ったものの正体を知らねばならないのです」
「個人的な理由などどうでもいい。掟だ。エンド・ロアの門を潜るには『死期』を証明せねばならん。お前の肌には死の影一つない。そんな瑞々しい肉体で、門を潜ることは許されない」
検死官が、追い払うように手を振る。だが、アイリスは一歩も引かず、外套の裾をめくって自らの足首を見せた。そこには、石の破片で切った傷が、塞がることなく生々しく残っていた。
「……加護は、もうありません。私は、故郷を捨てました」
「……馬鹿な。再生を捨てたというのか? あの安寧を、永遠の命を自ら手放したというのか」
検死官は絶句した。
彼らにとって喉から手が出るほど欲しい「不死」を捨てたというアイリスの告白は、正気の沙汰とは思えなかった。
しかし、彼は首を振った。
「だとしても……だとしても、ダメだ。加護を失った程度では、この門を潜る理由にはならん。お前の肉体はまだ美しすぎる。この街に満ちる絶望を、お前は一滴も理解していない。これしきのかすり傷で、死を待つ者たちの列に並ぼうなどと……」
「ならば」
アイリスは静かに、腰のポーチから小さな護身用のナイフを取り出した。
そして、それを逆手に持ち、検死官の目の前の石机に、カツンと乾いた音を立てて置いた。
「あなたが、私をこの国へ入れる『証明』をつくってください。この身体が、この街の人々と同じように傷だらけになれば、あなたは私を同類と認めてくれますか」
アイリスの声音には、迷いも恐怖もなかった。
彼女は、自らの柔らかな肌が切り刻まれることを、対価として当然のように差し出したのだ。
検死官は、石机に置かれたナイフと、アイリスの「視えない瞳」を交互に見た。
彼女の魂から伝わってくるのは、狂気ではない。
あまりにも鋭く、あまりにも純粋な、真実への渇望。
「……もう、よい」
検死官は力なく手を下ろした。
彼はまったくもって意味がわからなかった。
自分自身も含めてこんな吹き溜まりにやってくる理由などない。
賊ですら大した戦利品も廃品も期待できないと唾を吐く場所だ。
せいぜい訪れるのは最低限の慈悲をもった権力者が派遣した聖職者や修道女。
あるいは最期を看取ってやりたいと半ば狂乱状態に陥った誰かの家族など。
吹き溜まり「エンド・ロア」の国自体が決して交通の良い場所にあるわけではない。排他的な自然の要害に囲まれた「魔物」や「獣」の危険を感じずにはいられないのだ。いっそのこと食われてしまった方が良い、なんて考えを持つ人間も少なくはない。
「……通れ。勝手にするがいい。死に急ぐのがお前の望みなら、あの方々が喜んでその魂を梳いてくださるだろう」
検死官は吐き捨てるように言い、背を向けた。アイリスは無言で一礼し、重苦しく軋む黒い門を潜った。
門を抜けた瞬間にアイリスを襲ったのは、何百、何千という人間の「掠れた吐息」の奔流だった。 そこにはエヴァリアのような調和のとれた静寂はない。絶え間なく続く、痛みに耐えるための低い呻き。
誰かが、あるいは何かが、床を這いずる湿った音。そして、街全体を覆う、死を唯一の希望として待ち望む者たちの、焼け付くような熱を帯びた「渇望」の気配。
アイリスの杖が石畳を叩く。
その音は、もはや「終わり」が日常となったこの街では、あまりにも硬く、あまりにも生々しいリズムを持って響いた。
(……ここは、本当に生きている者の場所なの?)
横たわる人々を避けながら歩くアイリスの背で、始祖の剣が突如として熱を帯び始めた。 それは今までの共鳴とは決定的に違っていた。まるで飢えた獣が、餌を目の前にして喉を鳴らしているような、禍々しくも圧倒的な力の胎動。
「――導きの手を求めているのか、エヴァリアの迷い子よ」
頭上から降り注いだのは、氷のように冷たく、けれど慈悲深い響きを湛えた声だった。 アイリスが足を止めると、そこには街の喧騒から切り離されたような、ひときわ高い沈黙を纏う影が立っていた。
黒い長衣を纏い、顔の半分を銀の仮面で覆った男。
エンド・ロアの司祭。 彼の周囲だけは、不快な腐敗臭さえもが凍りついたように消え去っている。
「私は、この剣を……」
アイリスが言葉を発しようとした瞬間、司祭の仮面の奥にある瞳が、彼女の背負った剣に釘付けになった。司祭の魂の旋律が、一瞬にして畏怖と歓喜に塗り替えられていくのを、アイリスは感じ取った。
「見事な……あまりに無慈悲で、あまりに完璧な沈黙だ。我々が一生をかけて、数百人の命を梳いてようやく辿り着く『終わりの景色』を、お前はただ背負っているというのか」
司祭は震える手を差し出したが、剣に触れることはしなかった。彼は、その刃が触れるだけで、自分という存在が「死」さえ許されずに消滅することを見抜いていた。
「お嬢さん。お前がここへ来たのは、偶然ではない。この街に満ちる数多の『終わらぬ苦痛』が、その剣を呼び寄せたのだ。この剣は……死を与えるための道具ではない。この世界そのものから、理を間引くための『神殺しの針』だ」
司祭の言葉が、アイリスの胸を深く抉った。 彼女が救いだと思っていたものは、この地で最も死を神聖視する者から見れば、死さえも冒涜する「無」の権化であった。
「……教えてください。私は、この力で何をすべきなのですか」
「それを知るには、まず、この街の『深淵』を見なければならない。来なさい、盲目の巡礼者よ。お前が連れてきたその『真なる終わり』が、この吹き溜まりに何をもたらすのか……我らと共に、その結末を見極めるがいい」
司祭は背を向け、街の最深部、葬礼の鐘が鳴り響く聖堂へと歩き出した。
アイリスは、背負った剣の、かつてないほど激しい拍動を感じながら、その後を追った。 それは救済への入り口か、あるいは、世界を虚無へと導くための最初の崩壊か。




