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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
永劫の凪と救済の深淵
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第11話:『慈悲の階調』

 エンド・ロアの中心に鎮座する「静止の聖堂」は、街の他の建物とは異なり、音を吸い込むような黒檀色の石で造られていた。


 アイリスは、司祭――ベネディクトと名乗る前のその男――の先導に従い、聖堂の奥へと足を踏み入れた。


 一歩進むごとに、彼女の感覚はかつてない「負の魂」の奔流に晒されることとなった。視覚を失った代わりに研ぎ澄まされた四つの感覚が、この場所に澱む濃密な感情を克明に描き出していく。


 鼻を突くのは、枯れた花と乾燥した土、そして僅かな薬品が混ざり合った「静かな腐敗」の匂い。肌を撫でるのは、数多の人間が吐き出した溜息が幾層にも重なり冷たく湿った膜となった大気の震え。


 そして耳に届くのは、祈りとも呪いともつかぬ地を這うような低い囁きだった。


(……これが、終わりを待つ人々の色なのね)


 通路の両側にうずくまる人々が、アイリスの気配を察して顔を上げるのがわかった。 彼らの視線は、鋭い棘のようにアイリスの肌を刺した。


 そこには、絶望の淵にいる者特有の「部外者」に対する疑念と、彼女が纏う清潔な空気への僅かな拒絶が混じっていた。


「……安心しなさい。彼らは、あなたがどこかの慈悲深き貴族か、あるいは高名な国の護衛か何かだと思っている。その気高い出立は、ここを訪れる多くの者にとっては、死の間際に見る『外界の残照』のようなものです」


 司祭は、振り返ることなく穏やかな声で言った。


「もし誰かに尋ねられれば、私が適当に答えておきましょう。あなたが『エヴァリア』から来たなどとは、決して口にしませんから」


 その言葉に、アイリスは足を止めた。


「……なぜ、それを。私がその国の出身だと、お分かりなのですか?」


 司祭は僅かに歩みを緩め、仮面の奥で目を細めたような気配を見せた。


「私はかの地を訪れたことはありませんし、断片的な話を聞いたことがあるのみです。ですが……命が摩耗することを知らず、永遠の凪の中で育まれた魂の音色は、隠そうとして隠せるものではありません。この泥濘のような街において、あなたの存在はあまりに澄みすぎている」


 アイリスは驚きと共に、司祭の「音」に集中した。

 意外なことに、彼からは門前の男たちが放っていたような、剥き出しの嫌悪や欲といった負の感情は一切感じられなかった。

 彼の旋律は、エヴァリアで女神の言葉を説いていた神官たちと驚くほど似通っていた。静かで、平坦で、他者の痛みをただそのままに受け入れる器のような響き。


(救いの手を差し伸べるものは、外の世界でも、同じ音色がするのだろうか……)


「お名前を、聞いてもよろしいですか」 司祭の問いに、彼女は短く応えた。 「アイリスです」


「……アイリス。良い名だ。私はベネディクト。この吹き溜まりで、最後の一滴が零れ落ちるのを見届ける、ただの器に過ぎません」


 二人は聖堂の最深部、ひときわ巨大な石の扉の前に辿り着いた。

 ベネディクトが扉を押し開くと、そこには「儀式」の場が広がっていた。


 そこは、天井から僅かな光が差し込む広い円形のホールだった。


 中央には、もはや自力で動くことも叶わぬほど衰弱した老若男女。数名の巡礼者が横たわっている。彼らは苦痛に顔を歪めることもなく、ただうつろな瞳で虚空を見つめ、救済を……すなわち「死」を懇願していた。


 ベネディクトは彼らの前に歩み寄ると、膝をつき、その痩せ細った手に自らの手を重ねた。 そして、アイリスが知るエヴァリアの聖歌とは決定的に異なる、重苦しくも温かい「祈りの言葉」を紡ぎ始めた。


「……解き放たれよ。汝を縛る肉の鎖は今、大地の眠りへと還らん」


 それは、生きるための祈りではない。

 魂を肉体から優しく引き剥がし永遠の暗闇へと誘うための、死への手引きだった。


 円形のホールを満たしていたのは、単なる静寂ではなかった。


 それは、数多の喉から漏れる断続的な呼気と石壁に反響する祈りの残響が編み上げた、重く、沈み込むような「時間の淀み」だった。


 中央の祭壇近く、一人の男が横たわっていた。


 その男から発せられる旋律は、もはや人間のそれではない。骨の軋む音、肉が内側から腐り落ちていく粘りつくような音、そして何より、魂が肉体という名の檻を内側から掻きむしり、出口を求めて絶叫している「苦痛のノイズ」。


 若き司祭の一人がその傍らに膝をつき、必死に祈りの言葉を注ぎ込んでいた。

 しかし、男の放つ呪いにも似た生命の執着は司祭の柔らかな慈悲を跳ね返し、漆黒の炎となって周囲の空気を焼き焦がしている。


(……苦しい)


 アイリスは、胸の奥を鋭い針で刺されたような感覚に襲われた。


 視覚以外の四感覚が、その男の絶望を克明に拾い上げ、彼女の脳内に直接流し込んでくる。エヴァリアで目にしてきた「暴走者」たちが放つ、目的のない再生の圧力とは違う。ここにあるのは、死を望みながらも死に拒絶された、極彩色の沈淪のような執念だ。


 その時、アイリスの背で「始祖の剣」が、氷の牙を剥くように鳴動した。


(私なら……)


 アイリスの指先が、無意識に銀の柄へと伸びる。


 ベネディクトが紡ぐ穏やかな祈りよりも、他の司祭が費やす永劫のような時間よりも。この剣を一閃させれば、この男の苦痛は一瞬で、塵一つ残さず「無」へと還るだろう。それは残酷な暴力ではなく、この場にいる誰もが成し得ない「絶対的な慈悲」ではないのか。


 アイリスが一歩、踏み出そうとした。


 その瞬間、隣にいたベネディクトの手が、音もなくアイリスの肩に置かれた。

 言葉はなかった。ただ、古びた大樹の根のような、静かで揺るぎない圧力が彼女を押し留める。


「……行きましょう、アイリス」


 ベネディクトの低い囁きと共に、アイリスは促されるように聖堂の裏手にある小さな中庭へと連れ出された。


 外の空気は、鉛色の雲の下でどこまでも冷え切っていた。灰が舞うような風がアイリスの銀髪を揺らす。


「……なぜ、止めたのですか」 アイリスの声は、自らの内に芽生えた暴力的な救済への衝動に、微かに震えていた。


「私なら、あの方の苦痛を今すぐに消し去ることができた。あなたの祈りよりも、ずっと優しく、確実に」


 ベネディクトは、目隠しをされたままの少女を慈しむように見つめ、ゆっくりと首を振った。


「アイリス。あなたの持つその力は、あまりに純粋で、あまりに完璧すぎる。……だが、忘れてはなりません。『救い』と『消滅』は、似て非なるものです」


 彼は傍らの枯れ木に触れ、その乾いた樹皮を撫でた。


「我々が行う儀式は、長い時間をかけて魂を現世から解き放つ、いわば『引き剥がし』の作業です。それは苦痛を伴い、無様で、不完全なものかもしれない。しかし、その過程こそが、その者が人間として生きた最後の証明、すなわち『死の儀礼』なのです。ゆっくりと眠りにつける様に」


「そうです。死とは、単なる機能の停止ではありません。それは、命がその重みを大地に還し、物語を終えるための大切な手続きだ。だが……アイリス、あなたの剣がもたらすものは、きっと。それとは違う。それは物語を閉じるのではなく、物語が書かれた紙そのものを、炎で焼き尽くし、最初からなかったことにする『虚無』だ」


 ベネディクトの旋律が、哀しみを含んでアイリスを包み込む。


「消滅させてしまえば、苦痛は消えるでしょう。しかし、同時にその者が生きてきた意味も、死を願ったという最後の意思さえも、塵となって消えてしまう。それは救済ではなく、存在の否定です。この街の人々が求めているのは、消えることではなく、正しく終わること。皆、私たちと同じ。思い出を作り夢を見て未来を描いていた。確かに生きていた人間なのです……終わる権利を、その無慈悲な刃で奪ってはならない」


 アイリスは、柄に添えていた指をゆっくりと離した。 掌に残ったのは、冷たい金属の感触と、今まで気づかなかった自分自身の「生の重み」だった。


 エヴァリアで、自分が「終わらせてしまった」あの暴走者たちの姿が、黄金の情景と共に脳裏をよぎる。あれは救いだったのか。それとも、彼らの存在を、その苦しみごと世界から抹消しただけだったのか。


「……難しいのですね。終わるということは」


「ええ。だからこそ、神は人間にこれほどの苦痛を与えたのかもしれません。それが自分の生を感じる、最後の手応えとなるように」


 ベネディクトは優しく微笑んだような気配を見せ、再び聖堂の暗がりへと視線を戻した。 葬礼の鐘が、また一つ、重く響いた。それは先ほどよりも、ずっと切実な「生の叫び」として、アイリスの耳に届いていた。


(私は、何も知らなかった。けれど。それで良かったのかもしれない)

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