第12話:『澱みの底、不浄の再誕』
聖堂の中庭からさらに奥、地下へと続く石階段は湿った重力に引かれるように沈んでいた。 壁に埋め込まれた燭台の火は、酸素を拒むかのように細く震え、ベネディクトの長い影を壁に不気味に引き伸ばしている。
司祭は彼女との対話の中で、なぜあの美しく幻想的で、だが永遠の様な時間を捨てたのか。理解することはできなかったが、何を見つけ、何を見ようとしているのか。
数多くの人間の最期の救いを聞いてきた心は、気付きを得ていた。
「ここから先は、エンド・ロアの『胃袋』とも呼ばれる場所です」
ベネディクトの声は、地下の冷気に冷やされ、硬質な響きを帯びていた。
アイリスは杖を突き、一歩ずつ慎重に階段を降りる。
階下から立ち上ってくるのは、先ほどまでの「静かな死」の気配ではない。それは、腐りかけた果実に群がる羽虫の羽音を、数万倍に増幅したような、不快で、粘りつくような「生」の震動だった。
地下最深部の広間に辿り着いた瞬間、アイリスの四感は、激しい拒絶反応を起こした。
(……何、これ。これが、人間の音なの?)
そこには、巨大な鉄格子と、司祭たちが施した複雑な「結界」の鎖が、幾重にも張り巡らされていた。 鎖が放つ微かな祈りの拍動が、その奥に潜む「何か」を辛うじて封じ込めている。
アイリスの「視えない瞳」に映るのは、歪な生命力の暴走だった。
暗がりの中に蠢いているのは、もはや人間の形を維持することを放棄した、肉塊の集積だ。
ある者は、全身から無数の腕のような突起を突き出し、ある者は、再生の理が狂ったのか、巨大な腫瘍が自らの頭部を飲み込もうとしている。
彼らは死を求めてこの街に来ながら、そのあまりにも強すぎる「生の呪い」や「不治の変異」ゆえに、死という救済さえも受け付けなくなった、遺棄された者たちだった。
「彼らは、自ら命を絶つことも、狂気に身を任せて暴れることも許されません。結界という鎖が、彼らを無理矢理に『この世』へと繋ぎ止めているからです」
ベネディクトの言葉と共に、広間の奥から地響きのような唸り声が届いた。
それは言葉を持たない獣の咆哮ではない。
自分の肉体が、自分の意志を無視して肥大し、再生し続けることへの、終わりのない、呪詛に満ちた絶叫だ。
アイリスは、背筋に冷たい氷柱を立てられたような恐怖を感じた。
エヴァリアの「暴走」は、どこまでも静かで、月光のように淡いものだった。だが、目の前にあるのは、泥にまみれ、悪意を孕んだ、執拗なまでの「生への執着」。それは再生の加護が腐り果て、純粋な「生存本能」だけが怪物化した、不浄の再誕であった。
「アイリス。あなたの剣が、鞘の中で飢えているのがわかりますか」
ベネディクトが、静かにアイリスの横に立った。 彼の視線は、結界の鎖に縛られ、のたうち回る悍ましい肉塊を見つめている。
「彼らにとって、我々の祈りはもはや、石を磨く程度の無力な慰めでしかない。死という門が完全に閉ざされ、再生の檻に閉じ込められた彼らにとって、あなたの持つ『虚無』こそが、唯一の鍵となり得る。……だが、同時に問わねばなりません。彼らが犯した罪や、抱えた呪いごと、その存在のすべてを消し去ることが、果たして彼らの望む『終わり』なのかどうかを」
「……私に、決めろと言うのですか」
アイリスの声が微かに震える。 彼女の手は、吸い寄せられるように始祖の剣の柄へと伸びていた。
剣は、目の前の圧倒的な「生のノイズ」を消し飛ばそうと、狂ったように熱を放っている。アイリスの脳裏に、かつて一族の長が語った「剣士の矜持」が、今の光景と混ざり合い、歪んで反響した。
(救い……。これが、私が果たすべき救いなの?)
結界の鎖が、肉塊の激しい蠢きに耐えかねて、甲高い金属音を立てて軋んだ。 アイリスは、自分が持ち込んだ「虚無」という力のあまりの重さに、目眩を覚えた。 もしこの剣を抜けば、この地下に澱む数多の物語は、一瞬で、最初から存在しなかった白紙へと還る。
「……選ぶのは、あなたです。エヴァリアの剣士」
ベネディクトの問いかけが、地下の静寂に重く沈んだ。 その時、結界の奥に繋がれていた「最も巨大な影」が、不吉な音を立てて身を持ち上げた。
すると、地下広間に張り巡らされた結界の鎖が、悲鳴のような金属音を上げた。
一本、また一本と、司祭たちの祈りが込められた銀の鎖が、内側からの暴力的な膨張に耐えかねて弾け飛ぶ。
「……何が起きているのだ。結界が、これほどの早さで腐食するなど……!」
ベネディクトの声に、初めて狼狽の色が混じった。
その原因は、他でもない。
アイリスの背で狂ったように鳴動する「始祖の剣」だった。
この剣が放つ絶対的な虚無の波動が、生の執着を封じ込めていた繊細な結界の理を、外側から無慈悲に削り取っていたのだ。虚無は祈りさえも等しく飲み込み、皮肉にも最奥の怪物を解き放つ「鍵」となってしまった。
しかし彼女も司祭も、その感覚に気付くことはなかった。
最奥の闇から、地を這うような重低音が響き渡る。
それはもはや声ですらなかった。
幾千もの苦痛が重なり合い、泥のように煮詰められた「生存」という名の暴力。
ドォォォォン……!
爆ぜるような衝撃と共に、石造りの檻が内側から粉砕された。
姿を現したのは、肥大化した肉と無数の四肢が入り乱れる、悪夢のような肉塊。
死を拒絶され、過剰な再生を繰り返した末に「人間」という輪郭を喪失した、不浄の再誕。怪物は、目の前に立つアイリスが纏う「完成された死」の気配に、本能的な恐怖と、それ以上の飢餓感を露わにして咆哮した。
「これは……なんと!」
「ベネディクト様、逃げてください……! ここにいる方々全員を、今すぐ地上へ!」
アイリスの声はかつてないほど鋭く、そして静かだった。
彼女は知っていた。この怪物は、かつて誰かの父であり、子であり、愛された人間だったのだ。
しかし、今のそれは存在すること自体が罪であり、一刻ごとに周囲の命を蹂躙し、絶望を撒き散らす災厄でしかない。
「アイリス、絶対に、無理だけはしないように」
「わかっています」
聖堂の上層からも、異変に気づいた聖職者たちの悲鳴や、逃げ惑う人々の足音が振動となって伝わってくる。
(甘えは……許されない。私は、この方の物語を奪うのではない。この地獄に、幕を引かなければならない)
アイリスは、震える右手を銀の柄にかけた。
エヴァリアの凪を守るために振るってきた剣とは、わけが違う。
これは、相手の存在を、その生きた証さえも消滅させてしまう「禁忌」だ。
だが、この怪物を止める術は、もはや彼女の手に握られた虚無以外に存在しなかった。
「……許してください。せめて、眠りの中に」
銀の鞘から刃が滑り出した瞬間、地下の重苦しい空気は一変した。 絶対的な「無」が広間を支配し、怪物の咆哮さえもが真空に吸い込まれるように消え失せる。
アイリスの目隠しの下、視えない瞳が、怪物の中心に巣食う「痛みの核」を正確に捉えていた。
アイリスが踏み出す。その一歩は、泥濘を往く巡礼者のようでありながら、死を司る処刑人のような気高さがあった。
だが、その刹那。
「――っ!?」
アイリスの鋭敏な聴覚が、聖堂の壁を透過し、遥か遠く、街の正門付近から届く「音」を捉えた。 それは、腐敗したエンド・ロアの空気には決して混じることのない、あまりにも清冽で、あまりにも規律正しい鋼の響き。
キィィィィィィィン……!
馴染みある剣戟の音。
一族の者にしか扱えぬ、あの「月光を切り裂くような」鋭い振動波。
アイリスの背筋に、戦慄が走る。
(……お父様? それとも……)
目の前には、虚無による救済を待つ悲しき怪物。
そして背後からは、彼女を連れ戻そうとする「永遠」の鎖。
アイリスは始祖の剣を正眼に構え、迫り来る肉塊の突進を受け止めるべくその身を深く沈めた。




