第13話:『月下の断罪』
地を揺るがす衝撃と共に、不浄の再誕――かつて人間であった肉塊が、アイリスへとその質量を投げ出した。
視覚を排した彼女の感覚には、それが単なる物理的な突進には映らない。それは、幾千もの悲鳴を編み上げた巨大な「音の壁」であり、逃げ場のない「熱の奔流」だった。
アイリスは身を翻し、わずか数寸の差で怪物の触肢をかわす。
風を切り裂く轟音が耳元を過ぎ、跳ねた石礫が彼女の頬をかすめた。
(……速い。そして、重い)
怪物の動きには、生物としての調和が一切ない。
再生の理が暴走した結果、ある瞬間に生えた無数の腕が次の瞬間には肥大した筋肉に飲み込まれ、また別の場所から棘となって突き出してくる。
アイリスの「視えない瞳」は、その不規則極まりない攻撃の予兆を捉えるのに全神経を動員していた。
足裏に伝わる振動から、次の打撃の起点を読む。
大気の揺らぎから、怪物の放つ死臭の軌道をなぞる。
だが、どれほど完璧に見切っても、怪物の「生」は枯渇することを知らない。
剣で肉を裂けば、その傷口からはすぐさま新たな肉が芽吹き、意志を持たない暴力となってアイリスの外套を切り裂いた。
「――っ!」
アイリスは始祖の剣を盾に、怪物の重圧を真っ向から受け止めた。
鋼と肉塊がぶつかり合う鈍い音。
しかし、剣の柄から伝わってくるのは、物理的な抵抗だけではなかった。 それは、怪物の深淵から流れ込んでくる「終われないことへの呪詛」だ。
(痛い……苦しい……助けて……消して……)
何十人、何百人もの絶望が、直接彼女の脳髄を掻きむしる。
エヴァリアの暴走者たちも苦しんでいた。
だが、このエンド・ロアの底にある苦痛は、それよりもずっと泥にまみれ、人間臭い「未練」に満ちていた。
「アイリス! 飲まれてはなりません!」
上層へと続く階段の近くで、ベネディクトの叫びが響いた。
彼は一度避難したが、それでも彼女を怪物に相対してしまったという自責からなのか。それとも自らの役割・仕事として、このかつて人間だったものを看取らねばならいという使命に動かされたからなのか、戻ってきていたのだ。その声が、濁流に流されそうになっていたアイリスの意識を繋ぎ止める。
(ベネディクト様は言った……。これは『消滅』ではなく『死の儀礼』であるべきだと。単に焼き尽くすだけでは、この方の生きた意味さえも奪ってしまう)
だが、目の前の怪物は今や、周囲の全てを飲み込む災害そのものだ。
一刻を争う死闘の中で、慈悲と殺意をどう両立させればいいのか。
アイリスの心は、エヴァリアの凪と、外の世界の濁流の間で激しく揺れ動く。
怪物の触肢が、アイリスの肩を強く打った。
衝撃で吹き飛ばされ、石壁に背中を打ちつける。
肺から空気が搾り出され、一瞬、意識が白濁した。痛い、苦しい。
そこへ、怪物がその肥大化した身体をさらに膨らませ、最後のトドメを刺そうと跳躍する。
その絶体絶命の瞬間、アイリスの内で、今まで眠っていた「始祖の剣」の真なる意識が、彼女の鼓動と完全に重なった。
(……ああ。そうか。終わらせることは、否定することじゃない)
アイリスは立ち上がり、静かに剣を正眼に構えた。 力でねじ伏せるのではない。
怪物の放つ狂おしいほどの「生の圧力」を、そのまま剣の重みとして受け入れる。
彼女の指先から、震えが消えた。
「あなたの物語は、ここで閉じられます。あなたがかつて愛し、慈しんだものの記憶だけを残して」
怪物が頭上から降り注ぐ。 アイリスは動かない。
その一瞬、彼女は自分自身が、月光さえ届かない深い海の底になったような錯覚を覚えた。
一瞬の出来事だが、しかし深く呼吸ができた。瞬間。アイリスが解き放った一閃は、今までの「斬撃」とは決定的に異なっていた。
それは刃が通るのではなく、世界そのものがその場所から「沈黙」を求めて収束するような、根源的な断絶。 怪物の生命圧が最大に高まったその一点を、始祖の剣の「真なる重さ」が貫いた。
――地下広場が、音を失った白光に包まれる。
それは、すべてを灰にする炎ではなく、すべてを優しく包み込む深い夜の光。
剣が怪物の中心――「痛みの核」を断った瞬間、これまで響き渡っていた呪詛と叫びが、嘘のように消え失せた。
アイリスの掌に届いたのは、これまで感じたことのない「安らかな重み」だった。 怪物を構成していた歪な肉が、白光の中でゆっくりと雪のように解けていく。
その消失の間際。 アイリスの感覚は、確かに捉えた。
無数に歪んでいた怪物の顔が、消えゆく一瞬だけ、穏やかに目を閉じた「一人の老いた男」の顔へと戻ったのを。 そこには、死への恐怖ではなく、永い永い旅路を終えて、ようやく眠りにつける安堵だけが刻まれていた。
「……おやすみなさい」
アイリスが静かに独りごちたとき、広場にはもう怪物の姿はなかった。
ただ、彼女の足元に、かつての巡礼者が持っていたであろう、古びたロザリオが一つだけ、カランと音を立てて落ちていた。
彼女は膝をつき、激しい疲労の中でそのロザリオを拾い上げた。
ベネディクトは、かつて怪物であったものが消えた虚空を見つめ、静かに胸の前で印を結んだ。
「……安らかに。長く、あまりに長すぎた旅路でしたね。あなたの魂が、今度こそ大地の深い眠りに溶け込むことを」
その祈りは、怪物の咆哮に塗り潰されていた地下にようやく本来の静謐を取り戻させた。ベネディクトはゆっくりとアイリスに向き直り、銀の仮面の奥で柔らかな気配を漂わせた。
「アイリス。あなたは、この街の誰にも。我々でさえ手を焼き成し得なかったことを成し遂げた。……あれは消滅ではない。あなたが物語に『終わり』という名の装丁を施してくれたのです。この地に生きる者たちを代表して、感謝を」
「ベネディクト様……」
「ですが、休んでいる暇はないようです。……彼らは、あなたを救いに来たのではないのでしょう?」
鉄の扉を突き破る響きが、次第に近づいてくる。それは暴力的な破壊音でありながら、不思議なほどに「整った」リズムを刻んでいた。エヴァリアの剣士たちが、一糸乱れぬ規律を持ってこの聖域へ侵攻している証拠だった。
アイリスは、激しい疲労で震える足に力を込め、始祖の剣を鞘に納めた。
「……はい。彼らは、エヴァリアの『凪』を乱す者、そして一族の禁忌を持ち出した私を、決して許さないでしょう」
アイリスは祈りを捧げる間も、束の間の休息を取ることもなかった。
腹を括る、という感覚。
彼女の内にあった迷いは、先ほどの怪物との死闘、そしてベネディクトの教えによって、より強固な「意志」へと昇華されていた。
「外でお待ちします。聖堂を……これ以上、私の因縁で汚したくはありません」
「……武運を、若き剣士よ。その剣が、いつかあなたの物語を正しく閉じるまで」
ベネディクトの慈悲深い言葉を背に、アイリスは地上へと続く階段を駆け上がった。
――聖堂の外、エンド・ロアの広場。
そこは、先ほどまでの「死を待つ街」とは一変していた。 彼らはエヴァリア特有の白銀の外套を纏い、彫像のように微動だにしない。
彼ら「執行官」は、アイリスと同じ一族でありながら、その本質は決定的に異なっていた。 アイリスが世界の「音色」や「感情」を拾い他者の痛みに共鳴しようとするのに対し、彼らは感情を「効率化の妨げ」として削ぎ落とした、規律の自動人形の様だった。
彼らが纏う外套からは、エヴァリアの霧が微かに漏れ出し、周囲数メートルを故郷の「凪」と同じ環境へ強制的に固定している。
ゆえに彼らは、定義した範囲を超えることがなければ、外の世界の濁ったノイズに惑わされることがない。
一族の中でも特異な立ち位置。
長い修練と伝承を繰り返し繰り返し刻み込み。
エヴァリアの秩序と規律を守るためだけに選ばれた人間。
エンド・ロアの腐った湿り気を、彼らが放つ冷徹な「規律」の圧力が押し返していた。 中央に立つ一際長身の男が、腰に帯びた剣の柄に手をかけている。アイリスが耳にした「月光を切り裂く音」の主。
アイリスが聖堂の門から姿を現すと、男は感情の欠落した声で呟いた。
「……出たか。一族の恥辱、そして『始祖の剣』を汚した大罪人」
「セヴェルス先生……!」
中央に立つ男が、ゆっくりとフードを脱いだ。
現れたのは、冷酷なまでに整った顔立ちをした、アイリスの師範代でもあった男――セヴェルス。
「残念だ、アイリス。お前のしたことは、女神の加護への反逆だ。その剣を返し、我らと共にエヴァリアへ戻れ。……戻れば、再生の檻の中で永劫の懺悔をする権利だけは与えてやろう」
セヴェルスの背後に控える二人の剣士も、同時に剣を抜く。 エヴァリアの剣。切っても切っても再生し、終わることのない苦痛を相手に与え続ける、永遠の拷問の刃。
「……お断りします」
アイリスは、エンド・ロアの灰色の空の下で、真っ直ぐにセヴェルスへと向き合った。
「私は、この剣が見せる『終わりの真実』を、まだ知り尽くしていません。エヴァリアの凪に戻り、何も見ずに生き続けることは……もう、できないのです」
「沈黙せよ」
セヴェルスが静かに剣を抜く。
その抜刀の音は、周囲の全ての音を断ち切るほどに鋭い。
「再度教育が必要な様だ。ならば、力ずくでその身体を切り刻み、再生の理の中に封じ込めるまで」




